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安寿の仮初めブログ


V.エリセ監督『瞳を閉じて』を見てきました。



ヴィクトル・エリセ監督『瞳を閉じて』を見てきました。

見る前までは、期待と不安が交錯していました。
世界中から新作を期待される監督が、
その晩年に発表した作品は、
期待した私たちがいけないのか、
それとも監督自身の衰えなのか、
往々にして空回りしてしまうことが多いからです。

しかも、今回は、寡作であることで有名な、
あのヴィクトル・エリセ監督。

長編映画デビュー作が、あの『ミツバチのささやき』、1973年。
この後、次々と作品を生み出すのかと思えば、
第二作目の『エル・スール(南へ)』が、10年後の1983年。
第三作目の『マルメロの陽光』が、第二作目の9年後、1992年。
 (この映画は、画家の製作過程を追った記録映画で、
  エリセ監督のオリジナル作品とどこまで言えるのか、微妙です。)

そして、今回、第四作目『瞳を閉じて』が、
なんとなんと第三作目の公開から31年後の2023年。

長編以外にも、彼は、オムニバスの短編を作っているのですが、
それも全部で四本しかないという寡作ぶり。
現在84歳という年齢から考えても、
これが最後の作品になってしまう可能性が高いのではないか、
と思わざるをえない監督なのです。

その『瞳を閉じて』。

これは、なんと映画的仕掛けに満ちた作品なのでしょう。



<以下ネタバレ有り>


つまり、この映画は、
これまでエリセ監督が描こうとしてきたことを、
観客自身が追体験する仕掛けになっているように思うのです。
観客は、この映画を見ることを通して、
エリセ監督の映画作りの主要モチーフを、
一緒に体験することになるのです。


この映画は、三重の構造を持っています。
物語を引っ張っていくのは、
かつて映画を制作していたけど、主演俳優の失踪によって、
その作品が頓挫してしまった元映画監督です。

ですから、この映画は、劇中劇のように、
映画の中に、もう一つの映画『別れのまなざし』という映画があります。

その映画は、まもなく死にゆく男が、自分の娘を探し出して欲しいと、
探偵のような男に頼み、その探偵が娘を探し出していく物語なのですが、
しかし、この探偵を演じる主演俳優の突然の失踪によって、
この映画の制作は、頓挫してしまいます。

そして、数十年後、失踪者の過去を描くテレビ番組で、
この主演俳優が取り上げられることになり、
番組プロデューサーの依頼で、かつての映画監督が、
主演俳優の関係者を訪ね歩いていくことになるのです。

もうここで分かるかと思いますが、
劇中の映画は、行方不明の娘を探し出す探偵の物語です。
そして、『瞳を閉じて』という映画は、
その探偵を演じていた主演俳優を探し出していく元映画監督の物語です。
ここで二重の構造になっています。

そして、その『瞳を閉じて』という映画を、
今度は映画館の中で見つめている、私たち観客がいます。

この映画を見に来た観客の多くは、
新作がどうなっているのか皆目分からず、
ほとんど失踪状態だったエリセ監督が、ついに新作を発表したから、
こうして映画館を訪れているわけです。
ですから、この映画の公開によって、
今度は、私たち観客がエリセ監督を探し出していくという構図が
必然的に生まれます。

これで、誰かを探し出すという三重の構造が成立します。


このような構造が成立していますから、
私たち観客は、この映画の中に、
エリセ監督の過去の作品の面影を、
そして、エリセ監督自身を、
探し出していくことになるのです。

したがって、『瞳を閉じて』という映画の中の元映画監督は、
私たち観客にとっては、そのままエリセ監督の姿に重なります。
元映画監督が失踪した俳優を探し出していく過程は、
そのまま、私たちが映画の中にエリセ監督を探し出していく過程と重なるのです。

そして、エリセ監督も、
このような構造が生まれることを狙ったかのように、
『ミツバチのささやき』の少女アナ・トレント、
当時まだ5歳であったアナ・トレントを、
この映画の中で、
今度は、吸いも苦いも経験した大人のアナ・トレントとして、
失踪した俳優の娘役で、役名もアナのままで登場させます。

そして、『ミツバチのささやき』の中で、
5歳のアナ・トレントが精霊に呼びかけたのと同じように、
大人のアナ・トレントは失踪した父親に対して、
「soy Ana」、「私はアナよ」と呼びかけるのです。

こうなってくると、この映画は、
単に『瞳を閉じて』という作品の中だけで完結する映画ではなく、
エリセ監督のフィルモグラフィを知っていて、
初めて完成する映画と言えるでしょう。

ですから、『瞳を閉じて』という作品を見ることは、
この作品の中に、エリセ監督の過去の作品の面影を探し出すことになりますし、
映画の中に、エリセ監督自身の姿を探し出す経験になるのです。


では、劇中映画である『別れのまなざし』にも、
『瞳を閉じて』という映画にも、
その映画を見ている私たちにも、共通していることは、何でしょう。

それは、ある人のことを思い、その人のことをもっと知ろうと試み、
その人を探し求めるということ。

これが、ヴィクトル・エリセ監督の主要モチーフではないでしょうか。

考えてみれば、
『ミツバチのささやき』は、精霊を探し求めるアナの物語でした。
『エル・スール』は、大好きな父親を追い求めると同時に、
その父親の隠された側面を見つめていく娘エストレリャの物語でした。

誰かのことを思い、その人のことをもっとよく知ろうと試み、
その人を探し求めていくこと。

これが、エリセ監督の作品に共通したモチーフであったように思いますし、
エリセ監督自身の映画製作における基本姿勢だったのではないでしょうか。
エリセ監督にとって映画をつくるということは、
誰かを見つめ、誰かを求め、
その人を追い求めていくことだったのではないでしょうか。

そして、この映画を見ることを通じて、
私たちもまた、エリセ監督のモチーフを追体験していくことになるのです。


ですから、この映画は、
人物の佇まいや感情のゆらぎ、人物相互の関係の描写に、
とても時間をかけます。

その結果、2時間49分という、
これまでのエリセ監督作品からすると、異例の長さになっていますが、
しかし、日本の濱口竜介監督の作品のように、長さを感じさせません。
その場面で、何を描くのか、何を観客に感じてもらうか、
それがはっきりしているからだと思います。


そして、映画の最後で、
劇中映画の『別れのまなざし』のラストシーンが、
つまり、死にゆく男と失踪していた娘との再開シーンが、
失踪していた俳優の前で上映されます。

それは、そのまま、
失踪していた俳優と彼を取り巻く人々との再開を予兆させますし、
私たち観客とエリセ監督の再開となって、
映画の幕は、そして瞳は、
閉じられていくのです。


一つだけ難点を言えば、
この映画は、このような構造を持つだけに、
観客を選んでしまうように思います。

エリセ監督の作品を見たことがない人にとっては、
そして、エリセ監督に思い入れのない人にとっては、
大人になったアナ・トレントが、
アナの役名で登場してくる意味がわからないでしょうし、
彼女が失踪していた父親に「soy Ana」と呼びかけた時の、
観客の驚きもわからないでしょう。

その点で、通向けの作品になっています。
なので、『ミツバチのささやき』『エル・スール』を見た上で、
この映画を見ることをお薦めします。

実際、今回の『瞳を閉じて』の上映に併せて、
『ミツバチのささやき』と『エル・スール』の再上映が行われていました。

『瞳を閉じて』の公開は、もうすぐ終わるようですが、
祝日だからかもしれませんが、映画館は、ほとんど満席でした。




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