夢(8)
- カテゴリ:自作小説
- 2024/03/19 13:21:06
おれは卵雑炊を一口食べると、程よい出汁の香りが効いた熱くてとろりとした味で、体が一気に温まっていくのがわかった。
カブの炊いたものも、豆腐も、衰弱したおれの体に染み入る滋味があった。
ベルナルドの優しさそのもののような料理だ。
気づくと、おれは涙を流していた。
なぜだかわからない。
だけど、とにかく色んなものが込み上げて抑えきれなかった。
ベルナルドはハンカチを渡してくれた。
すまない、、なぜ泣いているのか、わからないんだ。。
おれはそう言いながらハンカチで涙を拭った。
。。。はい、ストランド様は長年に渡って抑制されてきたのです。
とても強く。
しかし、あなたは抑制されていることに気づいていませんでした。
抑制しているのはあなたご自身で、抑えることと抑えられる役割を同時に行っておりました。それは大変に無理のある矛盾でございました。
強い磁力を持った磁石そのものが自身の磁力を抑え込み、反発させ続けていたようなものです。
あなたはご自分が持つ磁力を抑制する役目をご自身に課してらっしゃいました。
そして、あなたはあの夜、その磁力を抑えることの限界を迎えました。
そして、夢の中へ逃げ込んだのです。
ただ一時だけ夢の世界を楽しむならまだ良かったのです。
だけど、あなたには現実世界に留まるための綱のもやい結びを夢の中で解いてしまった。。
そして、さっきは熊の穴ぐらから飛び降りて、森の奥へ入ろうとしていましたね。
あの森の奥へ入って行けば、あなたはもう二度とここへ戻って来れなかったでしょう。
すなわちそれは死を意味します。
いや、あなたは気持ちのどこかで、死を望んでらっしゃった。
明確ではないが、そうなっても良いと思ってらっしゃった。
消極的に死を望んでらっしゃったのです。
あなたは夢の中だけの存在ではなく、実体を持った命である限り、必ず生と死はあるのです。
私はそれを知りながら、ストランド様、いや、ウィリアム・テリー様とお呼びしましょう。テリー様がゆるやかに自決をお選びになることを止めないわけにはいかなかったのです。
申し訳ございません。
ベルナルドは頭を下げた。
おれにはよくわからなかった。
ベルナルドはこのホテルのフロントマネージャーである。
このホテルに来る以前は会ったこともないし、もちろんおれはニューヨークを発つ時に身元を証明するものなど何も持って来ていない。
どうしてベルナルドはおれの本名を知っているのだろう。
そして、なぜおれの夢のことも知っているのだろうか。
だけど、おれはなぜか、彼が知っていて当然だと思っていた。
ベルナルドはおれが食べ終えた食器を片付けて、ハリーに運ばせた。
ハリーがカートに食器を乗せて出て行き、ベルナルドとおれは部屋に二人きりになった。
これからどうするおつもりですか?
ああ、すまない。。
もちろん、金は払う。
そこのスーツケースに入ってるから、未払いの分と、今後1週間分も持って行ってくれないか?
いえ、私がお尋ねしているのは、代金のことなどでは御座いません。夢のことです。
あなたはまだあの夢の住人になりたいですか?
わからない。。
おれは考えがまとまらないんだ。
考えをまとめるための機能がうまく動かなくて、、ぼんやりしてるだけだ。
おれはそう言うと、ベルナルドは、
わかっております。
しかし、テリー様に今、考えをまとめるための力はさほど必要ないので、それで良いのです。大切なことは、心の方向です。
心の動く方向を注意深く見つめることが今必要なのです。
そのために時間をお取りください。
1週間でも1ヶ月でも良いのです。
また、以前のように毎日スポーツをしてください。しかし、もう一つ重要なことがあります。
毎日、あの熊の巣穴に腰かけてください。
それだけで良いです。
夢を見てる間中ずっとです。
何もしないで、ただ腰かけているだけです。
とおれの目をしっかりと見て言った。
次の日からおれはベルナルドに言われた通りにした。
毎日、フロントでベルナルドと顔を合わせるが、ベルナルドはまたフロントとしておれに挨拶や当たり障りのないちょっとした世間話をする程度で、おれのことをストランド様と呼び、2度と本名は口にしなかった。
夢のことは何も言わなかったし、おれの方からもあえて言うことは無かった。
いつも通り、朝早く起きて、1時間、ランニングをして、ホテルで朝食を取る。しかし、もう日記を書くことは必要が無いように思えて、その習慣はやめた。その代わりにレコードを聴くことにした。レコードプレイヤーとレコードはベルナルドに用意してもらった。クラシック音楽や、80年代のロックなんかを聴きながら、爪を切ったり、自分で白髪を染めたり、部屋を掃除したりした。
それから、スポーツクラブでルイスを相手にスカッシュをするか、屋内プールで泳いだ。
ルイスはおれが1週間以上姿を見せなかったことも、かなり痩せたことも、別段何も疑問に思っていなかった。
ルイスはいわゆる明るく若い典型的なスポーツマンで、常連客の一人が来なくなったところであっさりしたものなのだろう。
シャワーを浴びて、スポーツクラブ内のレストランで昼食を取って、ホテルへ帰る。
それからホテルの部屋で昼寝をして、街へ出て映画を観る。
そして、帰ってからホテルのルームサービスで夕食と酒を注文する。
ほとんど前と変わりないホテル暮らしだ。
酒を飲みながら、夜のテレビ番組を観る。
だいたいがナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーか、古いアニメーションムービーを観た。
テレビを観てる間にヘンリーが食器を下げに来る。
ヘンリーにはいつも多めのチップを渡して、軽く世間話をする時もあった。
そして、またテレビに続きを観て、眠くなればそのまま眠った。
たまにマスターベーションをすることもあった。
眠れば毎晩必ず、おれは11歳の少年になってあの巨木の生えてる原っぱにいた。
そして、おれはまた苦労して汗だくになりながら熊の巣穴まで登る。
熊は初めに見てからは、もう2度と見かけなくなっていた。
でも、おれはそのことを別段気にかけなかった。
そして、おれは熊の巣穴に腰かける。
あとは、ただそこにいるだけだ。
枝の一つ一つをゆっくり丹念に見て、どんな虫がいるのか、観察したり、それに飽きると、大概ただ何も考えずに座って過ごした。
ただ小鳥たちのさえずりを聞いてぼんやりと座っていた。
座っているのに疲れると、背中をそのまま倒して、上半身だけ穴ぐらの中に横たえ、また小鳥たちのさえずりや木の葉が風に揺れて擦れる音を聞いていた。
時間の感覚が無く、一体どれくらいそうしているのかわからないけど、目が覚めるといつも8時間経っていた。
それを毎日繰り返した。
そうですね。
おれもこれを書いているとき、同じように思っていました。
それにしてもベルナルドさんは何者でしょう・・・今後ウィリアムさんがどうなって行くのか気になります^^