『光る君へ 第11回』2回、観終わりました。
- カテゴリ:テレビ
- 2024/03/17 22:03:20
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2023年度決算まで、あと9営業日・・・。イベも日記も映画も、ドンドンきつくなってきてます。それに加えて雪割りが余分だあーーーー。
では「光る君へ 第11回」の考察です。
- ・初登場?伊周。直系で摂関を継いでいくなら、この人が栄華を極めるはずだが、試験には出ない名前。とすると、またまた、「毒」か「呪い」か「出家」か「大失策」・・?
- 生意気そうだったもんな。
- ・ついに吉田羊が「こくも?」に!!と言うが、そもそも国母って称号?偉い?権力アリ?まあ母だけど・・・。
- ・兼家が道兼をなだめる際に「そうすれば、いずれ、兄を追い抜ける」、なぜ兄弟の仲間割れをけしかけるのか?のちにまた、暗殺役をはめ込んで、罠にはめる伏線かー。
- ・デートシーンのBGMが初の「エレキギターソロ」!!を使用。斬新だけど、狙い過ぎで✖。
- ・またもや汚された高御座。犯人はわかっている??ここは宮中の奥の奥、ここに仕掛けできるのはかなり近い高位の内部犯行。または花山の祈祷はブラフだが、裏のウラの絵を描く安倍晴明のいやがらせか。
予告編で早くもロバート秋山が出てる。それにのに為時は反抗したから永久追放?まひろの衣装代も大変だねえ。佐々木蔵之介も「グレイトギフト」最終回で逮捕されたから、もうこっちにチカラいれるっしょ。
かな?
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内記は天皇の行動記録が仕事なんですが、平安中期には仕事らしい仕事があったのか疑問がありますので、これをもって官職復帰と考えて良いのかどうか不明。
官職復帰は10年後の淡路守→越前守就任とする方が有力かもしれません。
為時が官職復帰を果たすまで何をしていたか、ですが詳しい事は分かりません。
漢詩会や漢文会に出席したという記録もありません。
ただ村上天皇の皇子具平親王が為時と親しく交流した、という記録がありますので、具平親王のもとに出仕していた可能性はあります。
ドラマでどう描くかは不明です。
懐仁親王が践祚し、藤原詮子は国母となりました。国母は皇帝や天皇の生母を意味し、それ自体は称号でもなんでもありません。
権力があったかどうかも個人差カも。天皇の生母ということで権威はあったでしょう。
一条天皇は母詮子の進言をよく受け入れたので、その点では権勢を振るえたかも。後ろ盾も強力でしたし。
死期を悟った兼家が道隆に関白を譲った時、道兼は大荒れで寛和の変で功績があったのは自分の方なのになぜ兄が関白になれるんだ、と不満だったそうです。兼家が亡くなった時は、喪に服すべきところ家で宴を開いて遊興に耽った、という記述もあります。
このエピソードが元かな? という気はしますが、ドラマの兼家の道兼を宥めた科白は、次男をとことん駒として扱おうという兼家の思惑…からでしょうか?
貴族でありながら自ら殺人を犯した道兼の事を、実はとっくに見陰っているのかも。
ただ今後、裏を疑うような事件は無い筈ですが。
デートシーンのBGMは、まぁ好みは色々だと思いますので思うところも色々かと。
ネットで見る限り特に評判は悪くない模様。
高御座の生首事件は、脚本の大石さんオリジナル展開と思いきや、大鏡に記述がありますのでしっかりと典拠のある展開でした。
ただし、大鏡は歴史書ではなく歴史物語ですので信憑性にぽて疑問が残ります。
「光る君への時代考証の方も、実際にあった事件とは思えない、と言われているとか。
とはいえ当時の内裏の警備はガバガバのユルユルで、実行しようと思えば不可能ではなかった様です。
もし実際にあった事件であれば、犯人は花山院の側近等の近しい者では? と言われています。
藤原実資は、花山天皇の譲位にあたって蔵人頭を譲らされていますが、早々に道兼が参議に出世しましたので再度蔵人頭に任ぜられています。
相手が誰であろうと阿らない実資は煙たい存在ですが、彼は儀式や儀礼に関して非常に詳しく有能だった為、結局重用された様です。
大して為時は、有能は有能ですが実資をは方向性が違いましたのであまり重視されていなかったかも。。
ドラマでは兼家に逆らって不興を買いましたが、実際は兼家の政敵となった義懐に近かった為疎まれた可能性があります。
儂の目が黒いうちは~、とドラマで言ってましたが、実際兼家存命中は官職に復帰出来ず、
成長した藤原伊周が登場しました。第1話では小さな子供で画面の端でチョロチョロしていたのですが、大きくなりました。まぁ、10年程度は経過してますからねぇ。
さて、伊周は兼家の嫡男道隆の嫡男で、何事も無ければ栄華を手に出来た筈でした。
兼家が亡くなった後は父道隆が関白を継ぎますし、妹定子は一条天皇の中宮となって皇子と皇女を生みますから。
道隆が関白職を継いで僅か5年で病死しなければ…
ちなみに道隆の死は、毒でも何でもなく糖尿病(当時の呼び名は飲水病)です。
当時の酒は貴族が飲むものであっても濁り酒で、現代の清酒よりアルコール分は低く糖度が高めでした。
ですので、糖尿病は当時の貴族が多く罹患する病気でした。しかも道隆は大酒飲みとしても有名。その為、道隆は42歳頃に病没します。
死の間際、彼は関白職を息子の伊周に譲りたかったのですが、若すぎる事とそもそも関白職を継ぐ資格が無い事から叶わず、関白職は弟の道兼のものに。
その道兼も関白宣旨の十日後(?)あたりに病死。こちらは当時貴族間に流行していた病気(麻疹もしくは天然痘?)で死去。
関白職は一旦宙に浮き、末弟の道長が内覧(準関白と言える職)に就任する事で決着がつきますが、伊周はこれに異を唱え道長と対立。
それぞれの家の家人達が河原で乱闘したり、伊周の弟の隆家の家人が道長の随身(ずいじん。貴人の護衛、ボディーガードの様なもの)を殺したり、果ては花山院のお供と隆家の家人が乱闘騒ぎを起こし、花山院が乗った輿もしくは牛車に矢が刺さったりしたとか。大鏡だと院の着物の袖を矢が射抜いたと書かれていますが、流石にこれは過剰な表現。
藤原同士の諍いのうちは黙認していた様な一条天皇も、先帝である花山院が捲き込まれた騒動は看過できず、伊周と隆家を左遷し都から追放。
一条天皇は定子を大変寵愛していたので、どちらかといえば道長より伊周贔屓だったと言われますが、どうも他にも伊周の傲慢な姿勢が多々あった様で、追放は一条天皇主導で道長は特に関与していないそうです。
手を出さなくても未熟な甥が勝手に自滅する、と見極めていたのかもしれませんね。
一応伊周は一年ほどで、弟の隆家も数年程度で赦され都に戻ってきますが、大臣職まで出世することは出来ず、定子が生んだ皇子の即位も叶わず、家は凋落。
但し、娘が道長の次男の妻となり、