Nicotto Town


ジュンチャン


ジュンチャンと世界を巡る第22回はウズベキシタン


ヨーロッパに行く前に、ここからNIS諸国(1991年以前のソ連ならびにその構成共和国であった地域)に入ります。(TYG)

 
釣り師は少年時代にソ連を15日間でツアー旅行したことがあり、その中で現在のロシア、ウクライナ、ウズベキシタン、ジョージア(グルジア)、アルメニアの5か国の首都等を旅しましたので、ここからしばらくはその話となります。

 
まず最初はウズベキシタン、その首都のタシケントの話から始めますが、タシケントはウズベキスタン北東部のシルダリア川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市で、都市名はテュルク語で「石の町」という意味で、現代ウズベク語表記はToshkent、ロシア語表記はТашкент。

 
新潟からハバロフスクまでは飛行機で2時間弱の旅で、ハバロフスクからタシケントまでは非常時に軍用機となる飛行機で11時間弱の飛行でした。
 
タシケントのすぐ傍には世界の屋根「パミール高原」があり、シルクロードの西の果ての町カシュガルも意外と近くにあります。

 
なにぶん数十年前の旅ですので、手元に残っているのは数枚の写真とJTBの当時の旅行資料だけです。
 
資料によれば、前日の915()の夜9時頃に空港に到着したツアー客は、翌日の916()の丸一日をタシケント観光で過ごしています。
 
見学場所は、タシケント市内観光、ナヴォイ・オペラバレー劇場、クケルダシュ回教学院、バラカン回教学院などとなっています。
 
このソ連旅行はインツーリスト次第の旅行で、どこのホテルに泊まるかは現地に行ってみないとわからないという、危なっかしい先の見えない旅でした。

 
その頃の釣り師は、「風呂もマトモに入らず、宿にも1回も泊まらず、1週間程度の東北1周旅行を走破した余韻」が今だに残っていて、宿や食事なんてどうでもいいと考えていたので、結果として、旅での大切なものが記録に残らないという事になったのです。
 
今から考えると、宿泊ホテルの食事も、ソ連の国の当時のレベルの上限近くを行っていたのではないかと思われるほどで、毎回豪華だったという記憶だけは残っています。

 
釣り師のタシケントでの関心は、もっぱらウズベク人に向いていたようで、アジア人に良く似た顔立ちの彼らに、素直な気持ちで親近感を抱いたようです
 
現地の方と会うと、ズドラーストヴィチェ(こんにちは)、スパシーバ(ありがとう)、ハラショー(よい)、ダスヴィダーニア(さようなら)などの、赤ちゃんクラスの初心者ロシア語を得意げに連発した記憶が残っています。
 
肝心の会話の方ですが、カタコト英語を身振り手振りで無理やり通し、情熱だけでけっこう意思疎通が出来て、たいへん楽しかったという思い出が今も残っています。

 
写真に残っているウズベク人とどんな会話をしたかは覚えていませんが、ここでウズベク人のかぶっている帽子を土産に買い、日本に帰ってからもこの帽子が気に入っていて、家でも良くかぶっていたのを思い出します。

 皆さんはとウズベキシタンと聞いて、何を思い、何処を旅してみたいですか。 




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