『どうする家康 神の君へ』 ついに最終回です・・
- カテゴリ:テレビ
- 2023/12/17 21:11:32
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最終回の2回目視聴、いま終えました・・・。今日は先週から録り貯めたNHKの最終回直前スペシャル特番を一気に見尽くして、本番に備えました。48回、連ドラ4本分、よはり大河ドラマはそれに匹敵する価値がありました。
では「最終回 神の君へ」の記憶のハッキリのうちにすぐ考察します。
- ・最初30分で大坂城が落城。春日局が出るのが確定だから、残りは諸法度、長男世襲、そして名シーン次々で永眠かと思って見続けるも、意外な小咄に20分だったとは。
- ・前半、大坂城落城シーンを30分に収めるならこれで精一杯なのでしょう。真田幸村突撃はここでだったねえ。しかし、あと一歩までーーというドラマティックな最期にして欲しかったあ。
- ・合戦シーンはまあまあだったけど、どっちの誰かがわからないまま敵味方たくさん野戦で没していくので、優勢劣勢がわからん。
- ・北川劇場大団円。やっぱラストは「火」に消えて行く一族の因果だったですね。
- ・大野修理が千姫を送り届けるって説はなかったかな。秀頼父説もあるから、茶々と一緒でもいいか。
- ・柴田理恵4回目?天海の特殊メイクはやり過ぎ、顔パンパンじゃん。
- ・さて回想小咄。初期家臣団+妻子は再招集なんだろうな。いったん没すると以降の台本はもらえなくなるそうだから、末期に収録したんだろうね。
- 全話終わってしまいました。
- 大学入試用の選択でとった「日本史」でしか徳川家康を知らず、この1年間で出て来た、本州では有名な逸話もほとんど知らぬ中見始めた『どうする家康』でした。
- これまで接してきた本州勤務の時に関わった人たちはみんな知っていたこといっぱいあったんだろうなと思いました。
- NHK、脚本家の思想、現代批判、誘導に警戒しつつ、毎回自分スタンスで見続けたつもりでしたが、どう影響されたかはまだわかりません。
- 最後に、長きに渡り1年間、毎週長い時間をかけてこの日記にご解説の書き込みを頂いた、ニコタの「ユーミさん」に、この場にて心から厚く御礼を申し上げます。
- かな?
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しかし秀忠は助命を許さず、結果秀頼と淀殿は山里丸内で自害、大野治長や毛利勝永以下20名程が殉じたと言います。
ただ、ドラマの様に同じ場で自害した訳では無い様ですが。
秀頼と淀殿の自害は、駿府記や大坂陣覚書は大体同様の記述ですが、三河物語では少々異なります。
二人の助命は認められ、それが豊臣方に伝えられると豊臣方は二人が乗る輿を要求。この頃の貴人は輿に乗って移動するものなので豊臣方としては当然の要求だったかもしれませんが、幕府方にはその輿の用意が無く(正確には一つしか用意が無かった?)、馬に乗るか徒歩で行け、と返答。豊臣方が中々それに応じない為苛ついた井伊勢が脅しのつもりで発砲。
発砲を交渉決裂・助命拒否と受け取った秀頼と淀殿は自害してしまう、という結末。
大久保彦左衛門、話作りすぎじゃね? と思えますがいかがでしょう?
多分駿府記や大坂陣覚書の記述が真相ではないか、と思うんですけどね。
ともあれ、秀頼と淀殿及び側近たちの自害によって大坂の陣が終了、豊臣氏の滅亡が確定します。
ドラマでは大坂の陣の後、家康は魂が抜けたようになっていましたが実際はそんな事はなく、武家諸法度・禁中公家諸法度を定めて(年月を費やして用意してきていた筈ですが)秀忠の名前で発布しています。
更に隠居用の城を築くつもりだった様ですが、これは病気で倒れる前に断念。
好きな鷹狩も続けていた様です。
しかしやがて病臥し(鯛の天ぷらにあたって死んだというのは俗説ながら、天ぷらで体調を崩したのがトリガーだった可能性は否定できません。ただ亡くなるまで3か月ほど間が空いているので直接の原因とは言えません)、元和2年4月17日(1616年6月1日)に家康は死去します。
辞世の句は 、紀行でも紹介していた「嬉しやと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」 の他に「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」があります。
病臥中、家康は朝廷から太政大臣に任ぜられています。これは武家としては平清盛、足利義満、豊臣秀吉に次ぐ4人目のこと。
朝廷が家康、ひいては徳川幕府を重く見ていた証かもしれません。
この時の家康本陣の混乱ぶりは、駿府記や大坂陣覚書、三河物語などに記述があり、島津家久の手紙にも書かれています。ただし島津は、大坂冬の陣・夏の陣共に参陣が無かったので、実際に目撃したかどうかは不明。
ただ、家久の書面に「真田日本一の兵」という言葉があり、これがのちに軍記物などで広まったと思われます。
信繁は家康の本陣を二度も突き崩したと伝えられますが、受けた損害は少なくないもので(言われるほど家康の旗本衆が真田の勢いに怯えて逃げ惑った、とは思えず十分に奮戦しただろう、と個人的には思っています)結局は数に勝る幕府軍が次第に盛り返していきます。また水野勝成の水野隊が、茶臼山の真田の陣を襲って壊滅させた後に後方から真田隊を襲った模様で、真田隊は三度目の突撃で力尽きたと言います。
信繁の猛攻で家康も切腹を覚悟したと言いますが、これは確証の無い俗説にすぎません。まぁ、ありそうですけど。
家康の本陣が脅かされた天王寺の戦いに対して、将軍秀忠の陣が襲われた岡山の戦いは多少あっさりめ。
秀忠の本陣も大野治房の別動隊に襲われた事で混乱したものの、黒田長政、加藤嘉明、立花宗茂といったベテラン勢が秀忠の陣の傍にいたので混乱は短時間で解消し反撃に転じられました。
この辺りを鑑みると、家康は自分の守りより秀忠の守りを重視した様に思えますね。
秀忠に将軍職を譲ってからも大御所として権力を握っていた家康ですが、夏の陣の頃には既に全権を秀忠に移譲済みですので、万が一自分が戦で死んでも秀忠が健在なら徳川は安泰、と思っていたのかもしれません。
ドラマの様に、戦国の亡霊たちを引き連れて滅びるつもりだったとは思いませんが、若い秀忠に全ての後事を託して死ぬ覚悟はあったかもしれません。
豊臣の敗色が濃厚になった時点で、大坂城に火の手が上がります。
寝返った豊臣の兵が火を点けたと言いますが、最初に火を点けたのは大坂城の料理番だったとも言います。その料理番を秀頼は城壁から突き落として殺したとか何とか。
このあたりは俗説が入り混じって、何が真相なのか明確ではありません。
城内に火の手が上がった為、秀頼と淀殿達はこの時点でまだ無事な山里丸という蔵に立て籠もります。
ここで大野治長が独断で千姫を徳川に返還し、秀頼と淀殿の助命を嘆願。
孫娘に甘い家康は、秀頼と淀殿の助命も
幕府摂津方面軍と戦ったのが、長曾我部盛親と木村重成です。
盛親は八尾方面で幕府軍の藤堂高虎隊と、重成は若江方面で井伊直孝隊と交戦。盛親は藤堂隊を巧みな待ち伏せで散々に打ち破り、藤堂高虎が逃げ回らなければならない事態を作り出すことに成功したものの、木村隊が井伊隊に壊滅させられ重成も討ち死にした為仕方なく大坂城に撤退(その場に留まると、態勢を立て直した藤堂隊と藤堂隊の救援に来た井伊隊によって袋叩きにされかねません)。
ただし、その撤退戦で井伊隊の追撃を受け。盛親は大坂城に帰還できたものの長曾我部隊は壊滅した模様。
ドラマでは盛親は行方知れず、となっていましたが実際は戻ってはきたものの戦力にならない状態だった、というのが正しいでしょう。
最後は「天王寺・岡山の戦い」、大坂夏の陣といえばこの戦いを指すのではないか、と思える幕府軍と豊臣軍との総力戦です。
関ケ原以来の大戦で、総戦力は関ケ原以上(しかも関ケ原はまともに戦った軍は一部でしたし)です。
両軍がどの様に対峙していたかは、大坂夏の陣布陣図を検索してみれば幾つも出てきます。
この戦いで日本一の武士(ひのもといちのもののふ)と呼ばれるようになった真田信繁の、陣を敷いた茶臼山から家康本陣への突撃は、過去ドラマで何度も描かれています。
戦いの始まりは、豊臣軍の毛利隊もしくは幕府軍の本多忠朝隊からの攻撃によるものだとされていますが、どちらが先に仕掛けたのかはよく分かりません。いずれにせよ、わりとなし崩しに始まったのは確かな様です。
本多忠朝はあの本多忠勝の次男で、父親に似た猛将だったそうですが、毛利隊の攻撃は凄まじいものだったとかで忠朝は討ち死に、本多隊は崩れきってこれが後方に布陣していた幕府軍を巻き込む味方崩れを引き起こします。退却してくる味方の混乱に後方にいた友軍がその混乱に巻き込まれた訳です。
これは、世代交代が進んでいる幕府軍の経験不足・練度不足が引き起こしたと言って良いですが、背水の陣の豊臣軍が正に死に物狂いで戦ったからだ、とも言えるでしょうね。
この味方崩れを立て直すために、家康は本陣から旗本衆を応援に送るのですが、それが本陣の守りを手薄にする事になりました。ただでさえ味方崩れで、本陣を守る為の陣が混乱しきってますからね。
この隙を見逃すことなく真田信繁は茶臼山に築いた馬出しから
幕府大和方面軍の大将水野勝成の水野隊には結構な痛打を与えたらしいですが、大和方面軍の主力は伊達政宗と松平忠明が率いる2万以上。水野隊は数百程度の少数だった筈。水野は2万石なので動員出来る兵力は限られますので。
ただ小大名でありながら大和方面軍の大将を任せられた水野勝成は只者ではなく、敵が後藤基次と知るや否や大将であるにも関わらず敵陣に突入して幾つもの首級あげたと言います。勝成は基次と面識があったらしいです。
ちなみに、この水野勝成をモデルにした愛知県刈谷市のマスコットが「かつなりくん」です、こちらは滅茶可愛いです。
後藤隊壊滅後、薄田兼相が率いる先遣隊Bが到着し幕府軍と交戦になりますが、後藤隊より多いとはいえ3600に過ぎない薄田隊も壊滅、薄田兼相も討ち死にします。明石全登も一緒だったらしいですが、こちらは大坂城に退却というか逃げ帰りました。
絵に描いた様な戦力の逐次投入で敗北した感じですね、豊臣方は。
薄田隊壊滅後、ようやく主力の真田・毛利隊が到着。ここで漸く、二連戦を制して勢いづく幕府大和方面軍を押しとどめる事に成功するものの押し返すには至りません。
戦っているうちに、八尾・若江辺りで摂津方面から進軍してくる幕府軍を横撃する筈の豊臣軍が敗北したという報告が入り、真田・毛利隊は天王寺方面に退却して行きます。
この時殿を務めたのは真田信繁で、その際「関東勢百万も候え(関東の軍は100万もいるが)漢(おとこ)は一人もなく候(漢は一人もいない)」と挑発した、という逸話があります。
しかし幕府軍は挑発に乗る事無く、そのまま真田・毛利隊を見逃したそうです。
信繁の挑発は作り話の可能性が高いですが、殿を務めたのは確かで幕府軍が追撃しなかったのも事実。罠を仕掛けるのが得意な真田を警戒したからだとも言いますし、連戦で流石に疲弊していたからだ、とも言います。
信繁の逸話は他にもあます。
幕府軍の伊達隊と交戦した際に伊達の臣下片倉小十郎重綱が優れた人物であると見込み、戦いの後自分の次男大八と三女阿梅を使者と共に重綱の下に送ってその身を託した、というものです。
真田大八【後の守信)が片倉家に仕え、阿梅が重綱の継室になったのは事実なので、そこから遡った作り話だろうとは思いますが、中々面白い逸話です。
遅くなりましたが「どうする家康」最終回「神の君へ」の解説です。
といっても、主に大坂夏の陣に関してですね。
かなり省いてくれましたので。
分かりますけどね、夏の陣でも最後の天王寺・岡山の戦いにしか家康は関与してませんので、他の戦いは省略です、ドラマですから。
というわけで、夏の陣の主な戦いは「樫井の戦い」「道明寺・誉田の戦い」「八尾・若江の戦い」「天王寺・岡山の戦い」の四つですが、「樫井の戦い」は緒戦ということで特に省かれがちかも。
豊臣方の二将、塙団衛門と淡輪重政が討ち死にし大野治房が大坂城に逃げ帰っていますが、討ち死にした二将があまり知られてい武将の為か(塙団衛門は岩見重太郎の講談に登場しますが淡輪の方はそれも無し。両者とも自身の立身のためだけで豊臣に味方したタイプ)、この戦いの記録は地味です。
地味だからと言って悲惨で無いわけではないですけど。
「道明寺・誉田の戦い」は、軍を二つに分けて進軍してくる幕府軍のうち大和方面から進軍してくる軍を、大和口(大和山中の細い山道からの出口付近)で迎撃しよう、という豊臣方の作戦で起きました。発案者は後藤基次らしいです。
細い道だと大軍を上手く生かせないので、数で劣る豊臣方にも勝機がある、と考えた模様。
戦術的に理に適った作戦なので、豊臣方は約1万8千4百で出撃。真田信繁と毛利勝永が率いる1万2千が主力、発案者の後藤基次が率いる先遣隊A2800、冬の陣での汚名返上を狙う薄田兼相が率いる先遣隊B3600という構成です。薄田の冬の陣での汚名とは、油断して遊女屋で遊んでいる隙に守るべき砦を陥とされたアレです、
後藤の案は、思惑通りにいけば大軍の利を生かせない幕府軍が圧倒的に不利で敗北の可能性もゼロではなかったかもしれませんが、物事は大体想定通りには進まないもので、先鋒の後藤隊が道明寺付近に到着した時には幕府軍は細い大和路を抜けて国分村という辺りにまで進軍済み。
ここで既に作戦は破綻しております。
更に不幸な事は、幕府軍と対陣する事になったのが後藤隊だけだ、という事。
主力の真田・毛利隊1万2千はおろか先遣隊Bの薄田隊3600すら現場に到着しておりません。
夜間行軍の上に当時濃霧が発生しており、遅れていた隊は皆道に迷っていたらしいんですね。
後藤基次は止むを得ず道明寺から少し離れた小松山に陣を敷いて