Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康 大坂の陣』考察・・。あと2回かあ


♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡
  今回はラス前のちょっとお休み回・・・。ええーーっていう新解釈ってあったかなあ??
 オープニングテーマ曲ともうすぐお別れはなんだか寂しい>あのロゴだけはダメでした。

 では「大坂の陣」の考察します。

  • ・冷静に見て、男女とも大阪側の衣装は、どっかこっかに「金色」が使われていて、意図的なのか史実なのかわかんないけど、ケンミンショーみたい。
  • ・最初眉をしかめた織田信雄の登場。しかーし、こういう最後で花を持たせたんだあー。末裔もしぶといはず。
  • ・今回、梵鐘仕掛けも意図的で、宣戦布告は西からということか。
  • ・それにしても老人会のシーンが長過ぎ。うちの町内会の集まりの話題とおんなじ。痛い痛いと終活ばなし。
  • ・今年の大河ドラマも主役が一年間の、さつりく の大罪すべてを背負ってラスト退場。というパターンだねえ。
  • ・前回も書いたけど同時期、秀頼の役者が「コタツの無い家」のボンクラ高校生で出ているのは、どっちのドラマを観ていても大不快です。
  • ・はいっ、また出ました。この大河の初期から指摘してた、合戦従軍兵の坂道蛇行進軍セットを、また使ってましたね。
  • ・期待の真田丸戦もこれで終わり??家康の本陣に切り込むのは来週??
  • ・予告編の尼さんは初なのでしょう。

  •  天海和尚のびっくりキャストで登場とかで、もうひと泡吹かせてくれないかなあ。さて来週、北川劇場完結!!ここまで徹したのだから、思う存分にやって欲しいです。
 来週、大阪決着、その次に昇天??
                     かな?
♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡

アバター
2023/12/10 17:30
銃撃して仕寄せを邪魔します。
この信繁の挑発に乗ってしまった前田勢は、真田の一斉射撃で散々にやられてしまうんですね。
犠牲者は数千人、一万人という説もあります。
挑発に乗らず、家康の指示通りに慎重に進軍していたら、ドラマの様な惨状にはならなかったと思われます。
現将軍の婿として功を焦ったのかもしれません。

ですが、真田の奮戦が家康に大砲使用を決断させる事になったのですから、奮戦も良し悪し(奮戦しないと大坂城が陥ちかねませんが)。

家康が用意させた大砲は百門とも言われますが、殆どは国産で弾を飛ばすだけの火力が低いものでしたが、大坂城の北方備前島(石田三成や宇喜多秀家などの大名屋敷があったところ)に配置された、イギリスから輸入したカルバリン砲四門とセーカー砲一門は、当時としては長射程で砲弾は炸薬入りだったかもしれません。
その他にも、冬の陣が始まる一週間前にオランダから届いた半カノン砲(デミカノン砲)相当の大砲が一二門。
これらが一斉斉射されました。

大坂城にも大砲はありましたが、それはフランキ砲というい既に時代遅れになった大砲で、ガス漏れで事故が多く、威力も低く射程も短い、という代物。
ドラマで大野治長が徳川方の大砲をコケ脅しと見ていたのは、未熟な情報収集の所為で時代遅れのフランキ砲しか知らなかったから、と解釈できますね。

大坂城は十年は籠城できる、と自信を見せていた淀殿も、彼女の寝所に打ち込まれた砲弾が侍女を直撃し、侍女八人が全員死亡という惨状を目の当たりにして怖気づき、どんな条件でも和議を、と方針転換したとか。
砲弾が直撃って…想像の範疇を超えたエグさ。炸薬入りだったとしたら、直撃を免れたとしても淀殿よく無事だったなぁ、と思ったりします。
そんなエグイ場面は映像化出来ないので(多分五体が四散するので)、砲撃の影響で天井が落ちる描写に変えたのでしょうね。
実写で人が吹き飛ぶ様子など見たくありませんので、変更して正解だと思います。

次回は和議からの夏の陣、大坂城落城、淀殿・秀頼自害で豊臣滅亡迄でしょう。

大坂城は本丸を除いて解体されますので、真田丸も当然解体です。
真田勢の突撃は夏の陣で、裸城になった大坂城では籠城できないので野戦に出るしか無かった為です。
真田丸の活躍を見たいなら、「真田丸」をレンタルするしかないですね。
今ドラマの主役は家康なので。
アバター
2023/12/10 16:51
最初の3人は元大名、後の2人は大名の家臣ながら大名級の所領を得てました。
ただ後藤基次は関ケ原で牢人になったわけではなく、黒田長政家臣だったところ問題行動で出奔して牢人となっています。

冬の陣はまず大坂城の周囲に築かれた砦をめぐる戦いから始まりますが、ほぼ全てで数に勝る徳川方の勝利です。
特に木津川砦と博労淵砦を巡る戦いはお粗末なもの。
木津川砦を守っていたのは明石全登なんですが、たまたま砦を留守にしている時に攻められた為に指揮官不在の砦はあっという間に陥落。ドラマでは奮戦してましたが実際は不在。
博労淵砦はもっと酷く、砦の守将薄田兼相が遊女屋に遊びに行っていた留守を襲われこちらもあっさり陥落しています。
情けないにも程があります。
薄田兼相は、その前身は岩見重太郎という講談で有名な人なんですが(天橋立での敵討ちとか、大狒々退治で村娘(講談なので多分絶世の美女)を救ったとか)、個人的には疑問符が浮かびます。
柔術や無手流剣術の流祖だというので個としての戦闘力は高かったのかもしれませんが、将としては限りなく無能かも。

結局豊臣方は砦を全て放棄します。
その中唯一気を吐いていたというか気炎を上げていたのが、大坂城の南に築かtれた出丸(真田丸)を守っていた真田信繁です。
信繁は秀頼から黄金200枚銀30貫を前金として大坂に招聘されていますが、大坂方が本当に招聘したかったのは信繁の父昌幸だったのではないか、と思います。
上田合戦で二度も徳川を退けたのは昌幸ですのでね。ただ昌幸は1611年に亡くなっていますので、やむなく息子を招聘したのでは。
兄の信之が徳川方の将なので、裏切りを警戒されていた節もある様です。
信繁は大坂城での籠城戦ではなく打って出る野戦を主張したものの却下されていますが、それも最初はあまり信頼されていなかったからかもしれません。
野戦を却下された信繁は、ならば、と大坂城の弱点を補うべく真田丸を築き、結果的に徳川方に大損害を与える事になります。

真田丸を攻めたのは前田利常で、秀忠の娘珠姫の婿です。そのためか、かなりの大軍を預けられていました。
家康は利常に仕寄せ(竹の柵で銃弾を防ぎつつ塹壕を掘り土塁を作る、守りながら敵に近づいていく戦法)で攻めろ、と慎重な策を命じてます。利常もその通りにしていたのですが、真田勢が真田丸の南にある篠山という小高い丘から
アバター
2023/12/10 16:07
外されてしまいます。まぁ、失脚ですね。寺に入って隠居しろ、と迄言われましたので。

且元への暗殺未遂は、史実の様です。
暗殺を企てたのは、秀頼の乳兄弟木村重成や薄田兼相である、という資料が有るようですし、当時の京都所司代板倉勝重が大野治長による且元暗殺計画を把握していた様なので、治長も関わっていたのは確かでしょう。
ただ、ドラマでは淀殿の意向の様に受け取れましたが、実際は秀頼の意向だったのではないか、と思われます。
乳兄弟の木村重成が関わったのも、秀頼の意向だったから、と言えるかもしれません。

織田信雄(当時は常真と号してました)が且元に身の危険を知らせたのは史実。千姫からの情報かどうかは不明ですが。
その後、大坂城から退去しています。ドラマでは影も形も無い織田有楽斎も同時期に退去してますし、大坂城に留まって利用されたくなかったのでしょう。

且元の暗殺未遂や大坂退去の件は、家康を激怒させます。
徳川との取次役である且元を排したということは、徳川との対話を拒否した事と同義、という訳です。
現代で言えば、大使召還に相当する行為と言って良く、大袈裟に言えば宣戦布告です。
この事態をもって、徳川は全国の大名に豊臣討伐を布告した訳ですね。

老人会のシーンが長すぎと仰いますが、主人公の家康はこの時点で70過ぎ。側近の正信はその5歳上。
個人差はあるでしょうが経年劣化で体のあちこちが痛くなるのは不可抗力です。
少しクスっと笑えるシーンでしたが、この戦は徳川が汚名を着る戦になる、と言う家康の悲壮さを多少なりとも中和してくれる良いシーンだったと思います。
冬の陣が開始されると、心が痛いどシリアスシーンの連続で見ていて疲れましたので。

さて、始まった大坂冬の陣。
豊臣方は十万の牢人と共に立て籠もります。全国の大名に豊臣に味方せよ、と檄文を送ったんですが味方した大名は一家も無し。福島正則が8万石の蔵米を豊臣が接収するのを黙したくらいでしょうか。
味方になった牢人たちは、関ケ原で敗れて改易・減封された大名や家臣たちなので、豊臣が盛り返してくれない限りは自分たちが返り咲けない、と考えている輩達ですね。

牢人達の中で大坂方の中心戦力になったのが、所謂大坂五人衆と呼ばれる者たちで、長曾我部盛親・真田信繁・毛利勝永(元は森姓で毛利氏とは無関係)・明石全登・後藤基次、となっています。
アバター
2023/12/10 15:10
こんにちは^^

いよいよ始まった大坂の陣、まずは冬の陣です。
切欠は方広寺(当時はまだ寺号が無く方広寺となったのは江戸中期頃の筈)鐘銘の文字ですが、前回も書きました通り徳川方のイチャモンと言い切れないところがあります。
ドラマの様に豊臣方が意図的に仕掛けたとまではいかなくても、徳川が怒っても(豊臣を潰したい下心があったとしても)仕方がない豊臣方の言語道断な落ち度があった、と思っております。

それにしても、鐘銘事件でババを引いたというか貧乏くじを引いたのは片桐且元ですね。
1611年に浅野長政、加藤清正。1613年に浅野幸長、池田輝政。
と、豊臣恩顧の大名が次々に死去しており、ドラマで言われていた様に豊臣に残った徳川との唯一の取次役(連絡役)でした。
ちなみに二条城での家康と秀頼の対面を斡旋し、いざとなれば『この見に替えて秀頼様をお守りします」と言ったと言われる加藤清正ですが、実際は秀頼の護衛ではなく娘婿である徳川頼宣(紀州徳川家初代)の護衛でしたし、浅野幸長も清正と同じく娘婿徳川義直(尾張徳川家初代)の護衛でした。
池田輝政も継室が北条氏直と死別した督姫(家康次女)ですし、亡くなった豊臣恩顧の大名たちも徳川との結びつきが非常に強いです。

ともあれ貧乏くじの且元は、駿府城の家康の下へ弁明の使者として赴く訳ですが、ドラマの様に家康とは対面させてもらえず、本多正純と金地院崇伝による対応だったらしいです。
中々具体的な対応策を示して貰えず、且元の駿府滞在は延びる一方だったとか。
中々戻ってこない且元に苛ついたのmか、大坂の淀殿は自身の乳母である大蔵卿局を新たに派遣。
通説では家康は大蔵卿局を丁重にもてなし、鐘銘の事など全く気にしていない、秀頼公と淀殿によしなに伝えてほしい、と且元に対するものとは正反対の対応をして分断をはかった、とされていますが、最近では通説は否定され両者に対する対応は同じだった、とされています。

ドラマでは
・秀頼の江戸参勤
・淀殿を人質として江戸に置く
・国替えに応じて大坂城退去
という3項目は徳川方からの要求になっていましたが、実際は具体的な対応策や要求が出される事は無く、これらは且元と大蔵卿局が相談の上に出した私案の可能性が高い、という説も出ています。

上記3案は豊臣としてはいずれも受け入れがたく、案を出した且元は大坂城での執政から





Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.