Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康 天下人家康』ついにあと何回だ―


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 もうタイトルが「天下人」で始まった。関ヶ原合戦が始ま
っていないのに・・・。と思って見始めてけど、250万
石はダントツ、三成追放だから、実質はもう天下人ってことなんだろうなあ。

 では、「天下人家康」の考察を開始。

  • ・結構、日本史の教科書のとおりではありましたが、三成
  • 襲撃事件の記憶は、駆け込み先は家康の屋敷だったと記憶
  • してましたが、ただの仲裁で終わっちゃってた・・・。

  • ・寧々は実質上、家康が後継をこの時点で認めていたとい
  • うこと?今回、あえて全く活躍しなかった茶々暴走の伏線?ということか?

  • ・本多忠勝のみが伏見屋敷にいるのはなぜなんだろう?
  • あの時、城持ちになって自分の領地は関東じゃ?

  • ・石田三成の護衛の際、あえて「結城秀康」の名前を画面
  • 出した理由はなぜか?あのお義伊の子で途中で去った子
  • だったけど、この護衛の仕事が何かのちにつながるのか?

  • ・今回から?家康の顔面の老人斑?メイクがやたらきつく
  • なかった?熱病の痕みたいで、やり過ぎー。
  • ・道産子俳優音羽さんの鳥居元忠の最後がいよいよ迫って
  • いるのか!!

  • ・最後の最後、探訪のなかで、三成の「頭蓋骨の現物は現在、紛失」って、いったいどういうことなんだあーー。

 今回が1599年。関ヶ原合戦は1600年。実質戦闘
1日で決着のはずなので、この1年での裏工作ロードは、
ものすごい動きがあったはず。1週間で三成復帰から、大
合戦まで次週は持ってくってこと?
 あと放送は1か月半。大阪冬・夏の陣K淀殿の最後で締
めるのかなあ。
                   かな?
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2023/10/29 16:18
警戒していたのかも)、秀吉から下賜された名刀政宗を秀康に贈ったといいます。
秀康の方が年下ですが、わりと仲良くなったらしいです、この二人。

家康の老人メイクは急に始まったので驚きましたが、既に60越えの筈なのでいつまでもお肌ツルツルというわけにはいかない、ということでしょう。
若い頃から戦に明け暮れ、日にも散々焼けて来たでしょうから、お肌は荒れていて当然かと。
日焼けは肌の老化を促進しますので。

さて、次は伏見城の戦いがあるのでしょうか。
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2023/10/29 16:09
ならない、という項目に反したからです。
正確には秀吉の許可ではなく上様の許可となってますが、御掟が定められた時点で上様=秀吉なので。

御掟は要するに法令なんですが、秀吉の死後はその法令に大きな穴が空いてしまったんですよね。
結婚の許可を出す者がいなくなった後、誰が許可を出すのか定められていないわけです。
三成達は五奉行(+五大老)の合議で、と思っていたかもしれませんが、それを正式に通達していたかどうか怪しいものです。

家康だから特にあげつらわれただけで、結婚は諸大名も無関係ではありませんので、もし徳川私婚事件がなかったとしてもいずれ大問題が持ち上がっていたかもしれません。むしろ問題点を早期発見できてよかったのでは? と思うのは現代人だからでしょうか。

七将三成襲撃事件は有名ですね。
この際、三成が家康の屋敷に逃げ込んだ、というのは司馬遼太郎の小説などではそうなっていますが、実際は伏見城内の三成の屋敷に逃げ込んで立てこもった、というのが正しいです。
家康の屋敷に逃げ込んだというのは、明治以降の資料によるもので江戸時代の資料には書かれていません。

家康が仲裁に乗り出し、三成の奉行職辞任と佐和山への隠居で決着がついたのはドラマ通り。
この事件、三成は貧乏くじをひかされただけで彼に瑕疵は無い、と個人的には考えています。
七将らは文禄・慶長の役の際に、三成の讒言の所為で秀吉から叱責されたり所領を没収されたりした、という恨みがあるようなんですが、三成が讒言したと言う記録はありません。
ただ朝鮮派遣軍と秀吉との連絡役を務めていたのが三成なので、文句をつけやすい立場にいた、とは言えます。

伏見屋敷にいたのが本田忠勝のみ、というのは単に登場したのが忠勝だけだっただけで、他にも榊原康正などがいた筈です。
江戸から交代制で来ていた筈。
忠勝しかいなかったのは、出演者が増えるとNHKさんが色々大変になるからでしょうか。
スケジュールとかギャラとか。
そのあたり大人の裏の事情というやつで、言わぬが花かと。

佐和山に隠居する三成を護衛しながら送っていく任にあたったのが結城秀康ですが、わざわざ名前が表示されたのは、家康の次男でありながら秀吉の養子になり、更に結城家に養子として出された、というややこしさの為かもしれません。
三成は秀康の護衛に非常に感謝し(七将らの再襲撃を
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2023/10/29 15:14
こんにちは^^

秀吉の死後に始まった五大老・五奉行制度ですが、実際はこの十人による合議制とは言えない制度でした。
そもそも大老というのは江戸時代になってから出来た役職で、当時にはそんな呼び名はありませんでした。
強いて言えば「年寄」なんですが、五年寄というのは語呂もあまり良く無いですし、五大老という言い方が広まってしまっているので、専門家も訂正し難い模様。

ともあれ、五大老は徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家といった大領の大大名達。一番所領が少ない宇喜多も57万石はあった筈。
対する五奉行は浅野長政・前田玄以・増田長盛・長塚家正・石田三成で、こちらは石高は多くて20万石程度で大名としては小粒。ただし、元々秀吉の家臣として長く使えて来た者達です。

現代のイメージでは五大老の方が偉い様に思えますが、実務をとりしきるのは五奉行の方で、五大老の方は各大名に送る文書に重みを加える為に連名で署名をする程度だった様です。
とはいえ、大大名は所有する武力も大きいですので、軽々に扱えるものでもなかったのですが、五奉行の方は自分たちこそ豊臣の宿老、年寄である、と自負していた様ではあります。
現代の我々がイメージする程明確な制度ではなく、きわめて曖昧なものだったと言えると思います。

さて、ドラマでも描かれた徳川私婚事件です。
ドラマでは三成を援護する為、三成に対して反抗的な福島・蜂須賀・伊達を婚姻で結びつく事で跳ねっ返りの首根っこを掴む意図だったものが、誤解を招き却って不信を煽ってしまった様に描かれていましたが、実際の家康の意図は不明です。
ドラマの様に三成の為というのはありえないですが、従来言われてきたような五大老筆頭になった家康が好き勝手を始めた、というのも何か違う気がするんですよね。
五大老・五奉行制度自体がフワっとしたものだったと思える上、たとえこの十人による合議があったとしても、家康の立場は極めて弱いものでした。
家康以外の四大老は、前田は一応中立でしたが残る三人は反徳川でした。特に上杉がその急先鋒。長年徳川と領地争いをしてきましたのでね。
五奉行の方も、浅野長政が親徳川、前田玄以が中立ですが、他は反徳川。
合議にかけても家康の意見が通る可能性はきわめて低いです。

今回家康が違反を問われたのは、秀吉が定めた御掟の一条、諸大名は秀吉の許可なく結婚しては




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