「桜葬」1/2
- カテゴリ:自作小説
- 2023/09/09 18:38:35
「死ぬんだったら今日みたいな日がいい」
頭上で咲き誇る桜を見上げ、少し前を歩いていた祈織(いのり)が呟く。防護マスク越しの声はくぐもり正確な内情はうかがい知れない。口ほどに物を言うという目も、陽光を反射する透明な保護面に覆われ、結局どんな顔をして希死念慮を言葉にしたのか分からずじまいだった。
僕達人類は今、絶滅の危機に瀕していた。未だ原因不明の奇病で人々はバタバタと死に、飛沫感染なのか空気感染なのか、それとも接触感染なのかも分からないうちから慌てて防護服を着る生活を余儀なくされた。もし今これを脱げば、初期症状のくしゃみから始まり、発熱・発疹を経て死に至るだろう。そういう世界に、成り果ててしまった。
そしてどんな世界でも不思議というものは付き物で、病気が発見され人口が減少するなか、他の動植物も同じ道筋を人間ほどのペースではないが辿った。狂犬病やサーズなど人獣共通の感染症は存在するが、ここまでの規模は類を見ないという。さらに理解を超えているのが桜、もっと正確に言えばソメイヨシノだけは相も変わらず何事もなく終末を美しく生き抜いているという事実だった。
今日は祈織と墓参りを予定していた。
僕達は、家族も級友も、あまりにもたくさん急激に亡くした。到底火葬は追いつかず、人員不足も重なって、そのままの体で土に眠ることを強いられた彼ら。一定の土地を確保しやすいという観点から、青少年が汗を流した校庭が墓地へと姿を変えるのに時間は要さなかった。
コンクリの上、褪せて白茶けた花びらを踏みしだきながら母校に向かう。その道中での発言だった。
「今日みたいな日」
祈織の言葉と視線をトレースする。目の前にはまるで暢気な桜。これほどたくさんの花びらが散っているのに、まだ咲いている。人類も、こんな風に大勢死んではそれ以上に生命を繁栄させてきたはずだった。
かつての我々の栄光に想像が働かない一方、祈織が望む最期はありありと描けた。
もう長いこと浴びていない日光を肌に受ける。肺には花の薫りを一杯。これまで聞き漏らしてきた春告げ鳥の声がなつかしい。風は子供を寝かしつける母親のように髪を撫でるだろう。僕はその慈しみに抵抗せず、眠るように息絶える。死に際としてはわりあい理想的だと素直に思った。だが、肯定も否定もよくない方向に話が転びそうでやめた。
祈織も、特段反応を求めることはせず、無言で人も車も通らない道を進んだ。揺れる青い腰紐を視界に収めながら僕も従う。世間はまだ混乱の最中で、防護服の入手に難渋する場面が多い。良質なものほど生産数に限りがあり、流通もその影響を大いに受けている。僕達が纏うのは、青い透明なポリエチレンでできたガウンのような簡易タイプで使い捨てだ。そのため着脱がしやすく、エプロンのように首の部分を引っかけ前面から袖を通し、最後に腰の紐を結ぶ。僕はいいかげん面倒になって腰紐は一つ結びに変えたが、祈織は毎日丁寧に蝶結びを続けている。顔を覆うマスクだけは、亡くなった人のものという身分不相応なものを人から譲り受けた。
一方、当然ながら医療従事者は優先的に最も堅牢な防護服に身を包み次いで政治家、資本家あたりが高品質なものを入手し着ている。
つむじ風が我が物顔で道を横断し塵芥のような桜の名残を空へと還した。ふと、人はいつから自分が世界の主役として振る舞い始めたのか気になった。世界史の教科書に名前も残さない偉人が確かにいた。
正門からでは校舎に直結してしまうので、職員用の駐車場の門を通過し校庭へ進んだ。ここでは御影石の立派な墓は見当たらない。墓石の代わりに用いられた河原の石に、戒名ではなく生前親しく呼ばれていたあだ名がサインペンで刻まれている。そして花も数を減らすばかりの今、せめてもの手向けの花のとして地面に挿された桜の枝が卒塔婆のように乱立するのだ。
細くたよりない千朶万朶の條々の向こうには先客がいた。簡素な墓の前でしゃがみこみ、僕らと向かい合う位置関係ではあるが、フェイスガードであちらが気付くことはなさそうだ。体格で女性と判断する。重厚な防護服にある程度身分が絞れた。
距離が縮まるにつれて女性の様相が明らかになる。耐えるように胸の前で重ねながら握りしめられた両手。僅かながら耳に届く洟をすする音。
亡くしたのは誰だろうか。つい邪推してしまう。仲睦まじい夫。まだ幼い我が子。気の置けない友。恩返しの途中だった親。この人は流れる涙も拭えないまま、防護服の白い肩に桜の花びらが数枚落ちてくるほどの間、悲しみに暮れていた。ありふれた話だけど、いつだって僕の胸は詰まる。それは祈織も同様で、二人足を止め、桜のフィルター越しに見守るように墓の一列目に立っていた。
やがて女性は小刻みに震える手をほどき立ち上がった。宇宙服のような防護服の全身が露わになる。顔を上げたその人とフェイスガードを通して目が合った気がして、会釈をしようか迷った次の刹那、僕らは息を呑んだ。
女性の手がおもむろに顔のあたりをさまよったかと思えば、ある一か所に固定され、少しいじるような挙動の後さらに腕を頭上に伸ばすようにして面体が外された。あまつさえ、ゴトンと墓場に放られる。
ちょうど吹いた風に茶色のロングヘアが煽られる。生白い肌が儚げで、桜吹雪が祝福のように重く固い体を包んだ。
今度ははっきりと視線がかち合う。死の危険を自ら選んだ人とは思えないほど、穏やかな笑みを浮かべていた。