Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康 新たなる覇者』考察を真っ先に!


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 日曜日の夜の4連発のため、次々記憶が上書きされちってしまう―ーーっ!!しかも、今週は脱落ドラマ無く、週明明けはパンパンだあ。

 では「新たなる覇者」の考察します。

・(放映済み分の切り貼りは多いけど)また時系列さかのぼっての解説が多かったな。
・清須会議は三谷映画にするほど、ドラマ一杯だと思ったのに。織田家臣団の葛藤がわかんなーい。
・新事実、三法師はずっと秀吉の庇護下にいたんじゃなかったんだ・・・。
・今回は通しでのイメージが「黒装束北川景子の回」だったですねえ。今年のテーマ「女性重視」に則り、勝家軍総大将宣言までしちゃったね。
・茶々の今後の行動の布石を、これでもかあーというくらい、わかりやすくバラまきました。これから各所にブイブイ出て来るんでしょ。
・「賤ケ岳の戦い」は全く無し??業火の中、お市は消えてくはずじゃあ。城だけは安土城より見事に燃えてたけど。
それにしても、戦略上なぜ勝家軍が惨敗したのか全くわからず。これ、結構、天下分け目だったんじゃないの??いっそ前田利家を大悪役とかにでもすれば良かったのに。
・この時期の北条氏もチャンスあったよねー。劇中はおバカ扱いだった。この父子の頭ん中も見てみたい。それにこれも戦略上のミスはなんだったのだろう。
・真田との因縁もこの時?ここでちゃんと出しとかないと、のちのちの因縁がわかんなくなるー。
                      かな?
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2023/08/12 22:26
信澄を殺したりしなければ、秀吉の中国大返しを待たずに信孝と丹羽長秀の軍(四国の長曾我部征伐の為摂津現在の大阪で軍を整え、信長が来るのを待ってました)で明智光秀を討てていた可能性も零ではなかったかも、と思わなくもありません。

両者共に「我こそは」と言うものの能力的にはお察しという訳で、結局名代は置かずに二人共に三法師の後見役となり、重臣達が執権としてそれを補佐する、という体裁でまとまったらしいです。
ただ、柴田勝家が信孝を強く推していた、という説もあり、それに対して丹羽長秀と池田恒興が秀吉の意見を支持した為に勝家の意見が通らなかったといいます。

清州会議では、後継者問題だけではなく信長(&信忠)と光秀亡き後の領地の再分配につういても話し合ったらしいですが、光秀を討った殊勲者の秀吉は養子の秀勝(信長の四男を養子に貰ってます)の分も合わせると、勝家を上回るほどの領地持ちになったらしく、勝家はそれも不満だった様です。
勝家が明智討伐に間に合わなかった事は確かで、そこを突かれると黙るしかなかったらしいですが、勝家からすれば自身に匹敵かそれ以上の勢力を持つようになった秀吉に対し警戒もあれば不満も募ったでしょう。

ちなみに信長の遺領として、信雄には尾張が、信孝には美濃が分配されてます。
もっとも、この兄弟は分配された領地を巡っても争いだすんですけどね。
尾張と美濃の国境を変更しろ、と信雄が言い出したらしいんです。
国境にしていた木曽川が、洪水で少々流れが変わったかららしいですが、そのため尾張側が拡がり、美濃側が削られてしまった様です。
当然信孝は信雄の主張に反対しますが、秀吉が信雄の意見を通してしまうんですね。
当然信孝は大いに不満を抱きます。

秀吉と勝家との対立に信雄と信孝の兄弟対立が加わって、これが後の賤ケ岳の戦いへと発展していく事になります。

ところで、「どうする~」では秀吉を掣肘する目的を持ってなのか、お市は自分の意思で勝家と再婚する事を決めていて、勝家がそれを秀吉に伝えていましたが、実際は清州会議の結果に不満を持っている勝家を宥める為か秀吉がお市を勝家に嫁がせる様にしたみたいです。
一次資料である勝家の書状に「秀吉と申し合わせて」という内容がありますので。
「どうする~」のお市はかなり大胆にアレンジされてますね。
まぁ、魅力的なので結果オーライですが。
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2023/08/12 21:37
こんばんは^^
解説二日目やっていきます。

下記で、真田昌幸が碓氷峠を抑えたので若神子城の北条軍が戦闘継続困難になった、というのは碓氷峠を使って補給をしていたところその碓氷峠を抑えられてしまったので補給が困難となって戦闘継続が困難になった、という意味です。少々言葉足らずでした。

さて、天正壬午の乱で主に徳川と北条が争っている頃、織田家は後継者問題で揺れておりました。
絶対的権力者である信長が死に、家督を相続していた信忠までもが死んだ為です。
その問題を解決するべく開かれたのが清州会議。
川角(かわすみ)太閤記には、4人の織田家重臣(柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興)の他に織田家家臣が勢ぞろいして開かれた、と記されています。
その中、柴田勝家は信長の三男織田信孝(神戸(かんべ)家に養子に入っているので神戸信孝とも言います)を後継に推し、秀吉が信忠の嫡子(信長の嫡孫)三法師を推したとされ、丹羽長秀と池田恒興は秀吉に賛成します。
激論が交わされる中、秀吉がいきなり席を外し、戻って来た時にはその腕に三法師を抱えており重臣を含めた家臣一同が三法師に平伏したところ、三法師に対して平伏した筈が彼を抱えた秀吉に対しても平伏した形になった、という逸話が川角太閤記にあり、ドラマでもしばしば描かれるシーンです。
「どうする~」でもこんな感じでしたよね。
ですが、これは作り話。
信長は、織田家の家督は嫡男信忠、その次は嫡孫三法師、と常々考えていたらしく、会議が開かれる以前から家督は三法師が継ぐ事が既定路線だったらしい、というのが現代の定説です。
清州会議で何に揉めたかと言うと、三法師は幼児(当時確か三歳)なので家督を継いでも政務その他は当然出来ません。彼が成人する迄の間当主代理となる名代を置くか否か、置くとしたら誰にするか、という事でした。
名代に名乗りを上げているのが次男信雄と三男信孝です。

この二人、正直言ってどちらも盆暗だと思います。
信雄の方は天正伊賀の乱(第一次の方)で信長の命令を無視した挙句に大敗北し、信長から「信雄は我が息子にあらず」と叱責されてますし、信孝も本能寺の変の後に従兄弟の津田信澄を冤罪(信澄が光秀の娘婿だった為、光秀と信澄が手を組んでいたと証拠もないのに疑った模様)で殺してしまう無能。まぁ、信孝を止めなかった丹羽長秀もどうかと思いますけど。
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2023/08/11 23:03
「どうする~」では名前だけがチラッと出ただけでしたが、同じ大河ドラマの「真田丸」ではしっかり描かれてました。

徳川に味方した真田昌幸が碓氷峠を抑えた為、若神子城の北条軍は戦闘継続が困難になり、その結果和睦に繋がる訳です。

和睦の条件は、
1.氏直に家康に次女督姫を嫁がせる
2.北条は上野、徳川は甲斐・信濃を領有

条件2の所為で約束が違う、と真田昌幸が怒って3年後くらいに上田合戦が起こり、徳川軍は昌幸に翻弄される事になるんですが、上田合戦が描かれるかどうかわからないですね。




清州会議と賤ケ岳の戦については、明日以降に書く予定。
少々お待ちください。

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2023/08/11 22:41
要するに甲斐・信濃の国人衆を手懐け徳川に取り込もうとしていたとしか思えない行動なんですね。
明智討伐は、途中で明智が山崎の合戦で敗れて討たれた情報が入ったので京に向けての進軍は中止、軍をいったん浜松に返し7月に入ってから改めて甲斐に向かって進軍し甲府に入ります。
更に7月中旬には、上杉に奪われていた深志城も制圧。

さて、徳川に甲斐や南信濃を制圧された事を知った北条氏直は、川中島で上杉勢と対峙中でしたが、上杉より徳川を迎え撃つべき、と判断して川中島4郡を渡す条件で上杉と和睦(上杉も内部で反乱が起きていたため和睦を了承した模様)。
上杉との和睦成立後、氏直は南下して若神子城に入ります。
徳川も北条軍南下を受け甲府に鳥居元忠と平岩親吉以下2千を守備として残し、1万弱(8千強くらい?)を率いて新府城に入ります。
武田勝頼が滅亡した時の新府城は完成していなかったので勝頼は籠城を断念しましたが、本来の新府城は非常に攻めにくい堅牢な城です。
武田滅亡後に新府城には手が加えられ城として完成していたので、大軍を擁する氏直も攻めあぐねて両軍は実に80日にわたって膠着状態に陥ります。

戦線が膠着した事を知った小田原の北条氏政は、更に一万の軍を甲府に派遣。甲府を落とし、新府城の徳川勢を氏直の軍と挟撃する作戦をとります。
…ですが、交付を守る徳川軍が少数と侮ったのか何なのか、甲府に派遣された北条軍は戦うより先に略奪を初めてしまったらしいんですよね。
北条軍は乱取り自由(略奪行為All OK)だったらしく、実は甲斐の国衆から反感を買いまくっていたようです。
その点徳川軍は優等生だったらしく、甲斐の国衆は徳川軍に味方して抜け道などの案内をしてくれて、鳥居元忠・平岩親吉率いる2千の徳川軍は乱取りで隊列も乱れまくっていた北条軍の、多分後背もしくは側面から襲い掛かって5倍もの敵を見事撃破します。
これを黒駒の戦いと言いますが、ドラマで描かれていたのはこの部分ですね。

黒駒の戦いで敗れた北条は、織田信雄の仲介で徳川と和睦するんですが、そこに至るまでに上野沼田城の国衆が非常に節操のない動きをします。
その国衆は、上杉が北信濃に攻め込んでくると上杉に従属し、北条が上杉と対峙すると北条に寝返り、更に徳川がやってくると徳川に寝返るという、表裏比興の者と呼ぶのが相応しい人物。その名を真田昌幸と申します。
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2023/08/11 21:32
こんばんは^^

「新たなる覇者」は天正壬午の乱・清州会議・賤ケ岳の戦い(北庄城落城)まで描かれましたが、何と言うか駆け足でした。
特に天正壬午の乱は、カットされなかっただけマシ? という程度にサラッと流されましたが、実際は5か月に渡る長期間の乱です。
ドラマ的には清州会議や賤ケ岳の戦いの方を重視していましたが、徳川にとって重要だったのは天正壬午の乱の方。

この乱は、織田信長の死後に起きた、武田滅亡後織田家の所領となった武田旧領を巡る、徳川・北条・上杉による領土争奪戦です。

武田旧領は、上野・信濃小県郡・信濃佐久郡が滝川一益、甲斐が川尻秀隆、信濃川中島4郡が森長可、信濃伊奈郡が毛利長秀に与えられていました。
しかし織田信長の死の情報が伝わると、武田旧領各地で反乱が勃発。
領土維持が困難となった毛利長秀や森長可は統治を放棄して本拠地に帰還して行きます。
川尻秀隆は甲斐統治を続けますが、一揆勢に襲撃されて討死。
これにより、甲斐・信濃に統治の空白が生じた訳です。

この空白に乗じ、越後の上杉景勝が動きます。景勝は森長可が去った海津城に入り、長沼城・飯山城も押さえ、更に武田に追われたかつての信濃守護小笠原長時の弟洞雪斎を支援して、木曽義昌から深志城(現松本城)を奪取。木曽義昌は木曽谷に撤退。ちなみに木曽義昌はかの木曽義仲の子孫と称してます。

信長の死で動いたのは北条も同じ。北条氏直(北条氏政の嫡男)を大将とする約5万の兵で上野に侵攻、神流川で滝川一益の軍1万8千と激突しこれを撃破。滝川一益は、甚大な被害を被りつつ本拠地である伊勢長島に撤退。一益はこのため清州会議には出られず織田家内での発言力も低下します。
氏直は一益撃破後、更に北上し川中島で上杉勢と対峙。

さて、北条と上杉が睨みあっている時、南から徳川も動いております。
困難だったのか楽勝だったのか今一つ不明な伊賀越え(or甲賀越え)の末に三河に戻った家康は、一応明智討伐の為の軍を整えながらも、まず穴山梅雪の領地を岡部正綱(武田旧臣で高天神城で討死した岡部元信とは同族)に抑えさせます。
その後、約1万の軍で明智討伐に向かいます。フリなのかマジなのか不明。個人的にはフリなんじゃないかな、と。梅雪の遺領を抑えるだけでなく、甲斐や信濃の武田旧臣に対して所領を安堵するので徳川について欲しい、とお手紙出しまくったらしいし。




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