これからの保健体育科の授業
- カテゴリ:コーデ広場
- 2023/07/18 18:18:15
ニコ山・ショップ・キラキラ
もらったステキコーデ♪:19
名古屋市の18日の予想最高気温が38℃となったことを受け、名古屋市教育委員会は市内の小中学校などに体育の授業を中止するよう通達
★ ★
いかにも 上意下達の名古屋らしい英断だと思う。
20年ほど前 大阪が毎年6か月ほど続く熱暑に襲われた頃は、教員たちが話し合って5月~10月までの体育授業の弾力的扱いを決め、保護者にも通知し、もちろん親も地元民もそれを支持した。
(首都圏中心の全国紙もTVが近畿の話題は完全無視だったから知らない人の方が多いだろうけど)
それを 教育員会決議として通達するのが名古屋ならしい。
名古屋はもともと、夏はガリガリと暑く、冬はゴリゴリと寒く、雷雨と梅雨の雨も大阪とは比べ物にならないほど激しいという天気にメリハリのある風土だったけど・・
だから 行政も天気も なぁなぁの大阪
なんでもきっちりキチキチの名古屋という風土差になったのかもしれない(笑)なんてことは置いといて
教育委員会として責任をもってはっきりと「中止」する内容を明確にした通達を出すことの意義は、では、保健体育の授業として
熱い時はなにをするのか?と明確に話し合って学校として名古屋の教育として 実践できる点にある。
「現場レベルでの融通を校長が追認するだけ」と言う大阪方式の最大の欠点は、「易きに流れ、際限もなく教育の質と教師の質が堕落し、地域の学校教育制度そのものが形骸化して 教育の場・学校としての機能が完全に失われ、学校がただの税金と子供の人生(貴重な学ぶ機会)を『義務教育』の名において食いつぶすだけの存在・児童・生徒が学ぶ機会を「教師の示威的権威の行使」によって奪い放題、内申書と言う公的文書すら教師の感情で何ら妥当性も公正さもなく 勝手につけ放題の巨悪だけの存在」になり果てたと言う点にある。
名古屋の上意下達方式は 1970年代 思春期の子供の自殺(未遂も含む)が全国一ではなかろうかと思うほどの「締め付け・閉塞感」をもたらし、とうとうある中学生が卒業証書を受け取れない・卒業式に参加できないという事態まで複数引き起こしたが
それでも 学校として「義務教育」としてなすべき質の高い教育だけは きちんとやっていた。
(生徒が怖いと授業拒否する教師もいたが><
教育を受ける権利を申し立てに一生徒が職員室に乗り込んだら 校長がかわりに授業に来るなどの対応をするまともさもあった)
今はどうなっているか知らないが。
・教育委員会が 正式に通達することの利点は
「年間5~6か月間 日中の気温が常時30度を超える年が数年続く」(かつての大阪)とか、「予想最高気温が38度」と言った今の名古屋のように、これまでにない気象条件、もはや異常事態の恒常化と言っても良い、そんな時にも
新たな環境変化に即した「保健体育の授業の在り方」について、きちんと討議して まっとうな授業を継続できる可能性を 教師にも子供にも保護者にも保障する基盤となる
と言う点である。
それくらい、本来の「通達」は、「責任」の伴う重いものだ。
大阪の通達は ただの「黙認通知」、今の内閣の「通達」は
「ただの思い付きの通知・一担当者の個人的理由による命令」にすぎないが、本来 そんな軽い「通達」が出されるようでは 困る=組織が滅びる・もしくは形骸化して実態が消滅していることの証明、なので大問題なのである。
・保健体育科の目標は「心と体を一体としてとらえ」「生涯にわたって~健康の保持増進のための実践力の育成と体力の向上を図り,明るく豊かな生活を営む態度を育てる。」(学習指導要領「生きる力」)である。(字数の関係で 運動関連の部分を省略した)
・だから、かつて保健体育の教材には、発達論に即した人生のステージの沿って自分の生き方(学習目標・個人の選択の可能性と社会的要請のバランスをとる視点)が盛り込まれていた。
これは、下記の背景を持つ
「生涯教育」と言う言葉をキャッチフレーズにできないほど未消化の状態で文部省かいわいで漂っていた1960年代、すでに「社会教育の現場」や「発達論」の専門家の間では常識として実践課題にされていたこと、でも発端が社会学系のグループワーク:グループダイナミクスと表裏をなすアメリカの学習形態であったものであり、それを「生きる力」として集約して出版したのは横浜国大の教官だった(1970年ごろ)
それが 中教審(専門家集団)から臨教審(首相の傀儡=ど素人集団)に切り替わって 突然 人気の無いキャッチフレーズになった「生きる力」
そもそもグループワークを、トヨタの労務管理や松下経営塾で「リーダーシップ論」に矮小化したりと、日本ではろくな扱いを受けていない「教育」に関するある一つの視点」が 盛り込まれているのが「保健体育科」
これは 私の推測だが、「生きる力」に集約されたもともとの発想が、「キリスト教徒の教義へのアンチテーゼ」として発達したルネサンス・「人間を科学する」思考・研究を集積した視点だからではないかと思う。
それゆえ、「教育理論」ではなく「社会学理論」として発達した。
だから 幼い頃からクリスチャン教育を受け、尚且それに染まらない自由教育を体験した者しか、そこに込められた情念も理想としての必然性も実感できないから、いつまでもだっても 日本の社会ではフワフワとしたお題目のまま漂い続けているのではなかろうか?と感じる
なので欧米では、社会人養成の重要視点として、学校教育に盛り込まれた。が 日本では「教育」の範疇に収めきれないのではないかと。
教育関連の理念というのは、自分の体験との接点なくば、実感できないものではなかろうかと、数々の議論の現場や記録を見ていて思う
だが政治経済が欧米との一体化路線を驀進している現状で、この教育実態では日本人は自我喪失により滅ぶ!
それはさておき、夏場暑くて、野外で運動ができない今の日本ならば、学習指導要領にもとりあげられている、「生きる力」を養う保健体育科の学習として、
・スポーツとは
・安全に実施するために
体の発達(変化)
知覚・認知力等の生涯における変化
(脳の活動は 肉体の変化同様にかわる
だから 年齢や自分の脳の成長にあわせた訓練をすれば良い=~できない と劣等感を持つ必要はない
足の速い遅いのように、知覚や認知の力にも差があるしそれが個性。
体も頭も伸びやすい時期がある。だが生涯ゆっくりと発達を続ける しかし加齢による衰えもあるetc)
をきちんと学んで、体を鍛える・健康を維持するだけでなく
高齢化社会における 体や頭の衰えも視野に入れた生涯設計(準備)をする必要性を学ぶとともに、高齢者への介護・いたわりは ただの弱者保護ではなく、自分の未来の生きやすさに直結しているのだと気づかせる
・集団活動に関する理論と運営上の留意点を学ぶことにより
自分が クラブ活動や将来サークルに参加するときの留意点(やりたいことだけでなく 運営情報をつかんで 安全対策・対費用効果も考えるなど)を取得し、生涯にわたるレジャーとか健康増進活動・人的交流に必要なスキルとマナーを身に着ける
などの 授業を行うことができるのではなかろうか?
・「酒を飲むな・麻薬に出を出すな」と教えるだけでなく
そうしたものに接触するリスクの少ない場を選ぶ眼を
義務教育中の子供に養うためには、上記のような広い視野を持つことが必要だと思う
暑さのため名古屋市が学校での体育の授業を中止 猛暑による授業中止ははじめての措置 部活動も中止に(CBCテレビ) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/77fe2473cef84a32d944303ca2d69beee4be19eb
7/18(火) 12:04 CBC TV
名古屋市の18日の予想最高気温が38℃となったことを受け、名古屋市教育委員会は市内の小中学校などに体育の授業を中止するよう通達しました。
対象となるのは市立の小中学校、高校などあわせて415校で、「クーラーの効かない場所での保健体育の授業」や「運動を伴う部活動」、また「環境省の暑さ指数が31以上の場合の水泳の授業」について中止するよう通知を出したということです。
教育委員会によりますと猛暑による保健体育の授業について中止の通達をしたのは初めてだということです。