そばの日
- カテゴリ:グルメ
- 2023/06/30 00:59:46
こんばんは!30日(金は、西日本から北日本では雲が多く、
雨の所が多いでしょう。
雷と伴った激しい雨が降る所もある予想です。
土砂災害や低い土地の浸水などに警戒し、落雷や突風に注意してください。
南西諸島は晴れそうです。
【そばの日】
☆毎月30日は「そばの日」です。
<概要>
〇大晦日だけじゃない!毎月30日が「そばの日」の理由」
毎月月末にそばを食していたのは江戸時代です。
その当時の商人が家の財産が長続きする等、
縁起物として毎月月末にそばを食していたことからです。
後に・・・
「日本麺業団体連合会」が毎月30日を「そばの日」として制定しました。
〇歴史
日本食でありますそばの歴史は古く、
高知県の遺跡からそばの実の花粉が発見されたこと等、
9000年以上も前から栽培されていたことが分かっています。
そばはタデ科ソバ属の一年生草本で、
種を播いてから開花を経まして75日前後で黒褐色で5mm程の
三角稜のそばの実(種子)が出来ます。
@そばの伝来は縄文時代?
そばの種子が小麦や西瓜(すいか)の種子とともに、
静岡県の登呂遺跡から発見されました。
登呂遺跡は弥生時代後期のものですので、
少なくとも2000年以上前には日本に伝来していることになります。
[登呂遺跡(とろいせき)]
住所:静岡県静岡市駿河区登呂5丁目10
電話番号:054-221-1121
<日本考古学の金字塔 特別史跡 登呂遺跡>
第二次世界大戦中の昭和18年(1943年)に
軍需工場建設の際に発見されました。
学会の注目度は高く、
また、弥生時代の水田跡の遺構が確認されたのは日本で初めてのことです。
大量の土器や木製品等の出土品とともに、
住居跡、倉庫跡等の居住域と水田域が一体となりまして確認されました。
「弥生時代といえば水田耕作」というイメージが定着する契機と
なったことに加えまして、
この登呂遺跡の発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足される等、
戦後の日本考古学の出発点としても記念すべき遺跡です。
こうした登呂遺跡の歴史価値が認められまして、
昭和27年(1952年)には弥生時代の遺跡とは初めて、
「特別史跡」に指定されました。
<弥生の稲作農耕集落が広がる歴史公園>
登呂遺跡があります静岡平野は、
安倍川(あべかわ)と藁科川(わらしながわ)が創りました扇状地です。
今から約2000年前の弥生時代後期に、
二つの川の流れから出来ました自然堤防のような
小高い土地「微高地(びこうち)」には、
多くの集落が存在していました。
その一つが、登呂遺跡です。
遺跡の北側は、住居や倉庫が立てられました「住まいの区域」です。
そこから南東に広がります低い土地に「水田の区域」が広がっています。
登呂遺跡の集落は弥生時代後期から古墳時代まで、
4つの時期に分けることが出来ます。
その間に2回の洪水がありまして、登呂村は壊滅的な被害を受けました。
現在復元されていますのは、1回目の洪水の前の最後の集落の姿です。
<開館時間・観覧料>
開館時間 9:00~16:30
登呂遺跡公園は24時間開放されています。
*駐車場の利用時間は8:30~17:00です。
お車でお越しの場合はご注意ください。
休館日
・月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)
・祝日・振替休日の翌日
・年末年始(12/26~1/3)
<アクセス>
バスでお越しの場合
JR静岡駅南口から約10~15分
のりば 路線・行き先 おりば 所要時間
JR静岡駅南口 石田街道線 「登呂遺跡(終点)」 バス:約10分
バスターミナル 「登呂遺跡」
22番のりば 行き
石田街道線 「登呂遺跡入口」 バス:約10分
「東大谷」 徒歩:約5分
行き 合計:約15分
石田街道線
「久能山下」
行き
タクシーでお越しの場合
JR静岡駅南口から約10分
お車でお越しの場合
東名静岡ICから約10分
東名日本平久能山スマートICから約10分
駐車場のご案内
利用時間 :8:30~17時(最終入庫は16:30まで)
*年末年始のみ閉場
料金 :普通自動車・・・ 1回 400円
バス(マイクロ含む)・・・1回 1500円
駐車可能台数 :約50台
駐車場のお問い合わせ:054-282-2788
★最近の調査・研究
弥生後期以前の縄文時代から弥生時代初期とされる
高知県、島根県、埼玉県の遺跡や地層からもそばの花粉や種子が
発見されたとの記録があるようで、
縄文から弥生にかけて日本に伝来しまして、
各地で栽培されていた可能性があります。
@そばの伝来ルート
そば(普通種)の原産地ですが・・・
・北:バイカル湖 ・南:雲南省
・東:アムール川上流 ・西:チベット・インド北部
このように諸説ありますが・・・
現在では四川省や雲南省辺りの中国南部節が有力のようです。
日本への伝来ルートにつきましても色々な説がありまして・・・
・朝鮮半島から対馬へ
・シベリアから北日本へ
・中国から直接どこも経由せずに九州へ
などが考えられていますが・・・
原産地が中国南部ということでありますと、
稲の伝来と同じルートの、直接九州へというルートではないかと推測されます。
問題 そばが主食になれなかった理由を教えてください。
1、腹持ちが悪いから
2、硬い黒褐色の殻を剥くのが大変だったから
3、栄養が少ないから
〇日本の記録文献での初出
「続日本紀」に西暦722年(養老2年)天正天皇の詔勅(しょうちょく)の中で
救荒(きゅうこう)作物としてそばの栽培を勧めているとの記録があります。
この頃はそばは栽培が行われていたのは確実といわれています。
この文献以前の文献にはそばの記述は無く、
この語も西暦723年(養老7年)と839年(承知6年)にも、
同様にそば栽培を奨励する詔勅があったと記録されている文献があります。
ヒント・・・〇核果(かくか) drupe,stone fruit
果実の1型でありまして、種子を包みます内果皮(ないかひ)が
硬化しまして核となります。
核を囲みます中果皮(なかかひ)が普通多肉質となります
果実のことです。
また、石果(せきか)とも呼ばれています。
多くの場合は鳥等に果実ごと食されまして、
硬い内果皮で保護されました種子が排出されることで散布されます。
身近な例・・・
・ナツメヤシ ・桃
その他、ココナッツ等もあります。
お分かりの方は数字もしくはそばが主食になれなかった理由を
よろしくお願いします。
疲れているところ、こうしてお答えとコメントをありがとうございます。
素晴らしいですね、正解です。
おめでとうございます(祝)
なるほど~、そばアレルギーは蕁麻疹のような症状になったり痒くなるようですね。
ノエママンの読みもあるのかもしれませんね。
はい、お天気が良くないので疲労もしやすいですね。
7月の初日は体調に気をつけて、雨の水分等で転倒をせずにと注意してまいりましょうね。
今月もどうぞよろしくお願いします。
花金&ニコ店イベント、お疲れ様~☆彡(_´Д`)ノ~~オツカレー♪
2、硬い黒褐色の殻を剥くのが大変だったから☆彡
ホントは、アレルギーの子どもが多くてヤバいからじゃね?(ΦωΦ)フフフ…
時節柄ご自愛くだしゃんせ~☆彡(⋈◍>◡<◍)。✧♥
無理せず無茶せず、体を労わりつつ、楽しい週末を~☆彡◡( ๑❛ᴗ❛ )◡ルン♥