沖縄慰霊の日
- カテゴリ:占い
- 2023/06/23 17:04:16
ニコットおみくじ(2023-06-23の運勢)
こんにちは!九州から東海は次第に晴れる。
関東は雲が多く、朝晩を中心に雨。
北陸と北日本でも雨が降る。
沖縄は晴れ。
最高気温は平年並み。
【沖縄慰霊の日】 おきなわいれいのひ Okinawa Memorial Day
☆6月23日は慰霊の日であり、沖縄では公休日となっています。
June 23th is Okinawa Memorial Day it is a
pubulic holiday only in Okinawa Prefectire.
<概要>
〇なぜ?6月23日を「慰霊の日」に?
1945年6月23日沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる為です。
この日ですが・・・
当時、沖縄の防衛にあたっていました日本軍司令官の
牛島満(うしじまみつる)中将とその部下が自決しました。
《牛島満》中将
1887年(明治20年)7月31日ー1945年(昭和20年)6月23日
日本の陸軍の軍人です。
陸士20期恩賜。陸大28期。
最終階級は陸軍大将です。
*自決直前の6月20日付で中将から昇進
〔自決前に司令官「最後まで戦え」 集結知らず隠れ続けた住民も〕
1945年6月23日沖縄戦での日本軍の組織的戦勝が終結しました。
1945年3月下旬に始まりました沖縄戦はいつ終わったのか?
4月1日に沖縄本島中部に上陸しました米軍の侵攻を受けまして、
日本陸軍第32軍は5月末に首里の司令官本部を本島南部に移しまして、
戦い続けました。
*首里・・・現:那覇市
しかし・・・
すでに戦力の大半を失いまして、
約10万人いました兵士は約3万人に減りまして、
武器も十分に行き渡らない状態でした。
米軍は6月中旬、第32軍司令部壕がありました沖縄ほんと最南端の
摩文仁(まぶに)の高地を包囲します。
〔摩文仁〕
本日「慰霊の日」 激戦地摩文仁で戦没者追悼式
沖縄は23日、沖縄戦の戦没者らを悼む「慰霊の日」を迎えました。
沖縄戦最後の激戦地であります本島南部の糸満市摩文仁にあります
沖縄県営平和記念公園では、沖縄全戦没者追悼式が開かれました。
コロナ渦前の規模で営まれるのは4年ぶりです。
玉城デニー沖縄県県知事が「平和宣言」を読み上げられました他、
岸田文雄首相も参列しました。
公園では22日(木)夜、犠牲者らの名が刻まれました
平和の礎(いしじ)の近くで、
「平和の光の柱」としてサーチライトが夜空に照射されました。
地上戦は1945年3月下旬に始まりまして、
6月23日に組織的戦闘が終わったとされています。
沖縄戦では日米合わせまして20万人余りが犠牲となりました。
追い詰められました牛島満司令官らが6月23日に
自ら命を絶ちましたことで日本軍の組織的戦闘は終結しました。
*牛島司令官らの自決は22日という説もあります。
牛島司令官は自決を前に「最後まで戦え」という命令を出しまして、
23日以降も日本兵の抵抗は続きました。
戦闘終結を知らずに隠れ続けた住民もいました。
米軍は帰討作戦を展開しまして、7月2日に作戦終了を宣言します。
一方の離島等では・・・
その後も日本軍の隊長らが山中に立てこもりまして、
久米島では8月18日に住民に投稿を呼びかけました民間人が
日本軍に虐殺される事件も起きました。
『戦争終わったよ』投稿を呼びかけた命の恩人は日本兵に殺された
沖縄・久米島(くめじま)での住民虐殺
沖縄戦で本当における日本軍の組織的戦闘の終了後、
久米島に配備されていました日本軍にスパイ容疑で虐殺されました
仲村渠明勇さんに命を救われました少年がいました。
現在、東京都練馬区に暮らします渡嘉敷敷一郎さんです。
*2019年6月22日の段階で渡嘉敷さんは80歳です
渡嘉敷さんは久米島に上陸しました米軍に捕らわれるのを恐れまして、
池に忍び込んで命を絶とうとしましたところ、
仲村渠さんの呼び掛けで思いをとどまりました。
同じ久米島の妻政子さんが住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けています。
一郎さんも参加して語り始めました。
*2019年6月22日の段階で政子さんは80歳です
沖縄本島で捕らわれました仲村渠さんは、
1945年6月26日米軍とともに久米島に上陸しまして、
住民に投降を呼び掛けていました。
日本のポツダム宣言受託後の8月18日、
島にいました日本軍の通称「山の部隊(鹿山正海軍通信隊長)」の
兵士に妻子と共に殺されました。
渡嘉敷さんは旧具志川村仲泊の出身で、
戦争中は50~60人で避難生活を送っていました。
*旧具志川村・・・現:久米島町
「ヒージャーミー(アメリカ人)に殺される」との話が
住民の間に広まっていきました。
米軍上陸後、母親の親戚と一緒に逃げていました渡嘉敷さんは、
池に飛び込もうとした矢先、
「もう戦争は終わったよ。もう死ぬことはないぞ」という
仲村渠さんの呼び掛けを聞きました。
「あれは西銘(集落)の明勇だ」
このように誰かが叫びまして、
我に返りました渡嘉敷さんは投身を思いとどまりました。
当時、島では日本軍の隊長からは・・・
「山に上がって来ない者は殺す」
このような命令が下されていました。
上陸してきた米軍は日本兵が軍服を捨てて、
住民に紛れ込んでいることを知っていました。
「家に戻りなさい、戻らなければ殺す」
このような投降の呼び掛けが出されていたといいます。
どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に、
住民は置かれていました。
渡嘉敷さんは・・・
「明勇さんは案内人として米軍に連れて来られていた。
村人が隠れている所を回って、投降を説得するのが役割だった。
明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。
それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」
このように語られまして、悔しそうな表情を浮かべました。
天皇が終戦を国民に知らせました玉音放送の3日後でした。
日本軍が沖縄で降伏文書に調印しましたのは1945年9月7日です。
問題 米軍が1945年3月26日に上陸しました諸島を教えてください。
1、慶良間(けらま)諸島
2、大東(だいとう)諸島
3、八重山(やえやま)諸島
ヒント・・・〇正解の諸島
沖縄本島南部の那覇市から西に約40kmに位置しています。
大小20余りの島からなります島嶼(とうしょ)群です。
@構成する3つの島
座間味島、阿嘉(あか)島、渡嘉敷島です。
@名物 島むん さん(待合所売店)
渡嘉敷産のグァバや野苺を使用しましたゼリーやジャム、
焼き菓子を製造します島むんの港売店です。
・島むんフルーツゼリー(5種)=各210円
・野イチゴジャム=740円
お分かりの方は数字もしくは米軍が1945年3月26日に
上陸しました諸島をよろしくお願いします。
どうもお疲れ様です。
こちらも正解ですね、どうもおめでとうございます(祝)
そうですか、バス1日乗車券を使用成されたのですね。
水元公園という所は風情があるようで良いですね。
そうですか、柴又帝釈天にも行かれましたか。
あのそばの2店のどちらかでお団子を召し上がったのでしょうか?
あはは、夕食後の米米ロールが最高な訳ですね。
はい、かなり疲労されたはずです。
週末も健康で過ごせますことを心よりです。
ご多忙で疲れているところ、こうしてどうもありがとうございました。
花金、オツカレちゃ~ん☆彡(_´Д`)ノ~~オツカレ♪
1、慶良間(けらま)諸島☆彡(`・ω・´)b
本日は、夜勤明けの夫氏とデートしてきたッス♪(^_-)-☆
バス1日乗車券を使って、しばられ地蔵で有名なお寺を参拝し、オミクジで大吉を引いた後、23区内で最大規模の水郷公園の「水元公園」で、川面や水鳥を眺めながらお弁当を食べて、ほぼほぼ終わりの花菖蒲と立ち枯れつつあるけれど満開の紫陽花を愛でて、その後、寅さんで有名な柴又帝釈天を参拝し、参道にあるお団子屋さんで休憩したり、お土産に米米ロールとゆう変わってて美味しいロールケーキを買って帰り、夕食後にペロリと平らげちゃったわ~☆彡(⋈◍>◡<◍)。✧♥
無理せず無茶せず体を労わりつつ、楽しい週末&良い日曜を~☆彡◡( ๑❛ᴗ❛ )◡ルン♥