Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康』お手付きしてどうする考察します!




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 なんだか家康日記を書く夜は、ファイターズ惨敗の連動性高いんじゃないのかあー。このガックリの中、記録残しまーす。

 では「お手付きしてどうする!」の記録です。
・前週の神回の記憶のまま今回突入するも、壮絶死の面々の話は一切でなあい。冒頭、最強武田信玄が消えた。さすが阿部ちゃんはインパクト残したね。ここまでの武田は先入観どおり。さて次のゴードン勝頼は通説どおりか、異説採用なのか??築山事件の仕掛けは巫女暗躍みたいだなあ。
・足利義昭退場はあれだけかいな。大御所キャストで異論期待したけど肩透かし。光秀への処遇が伏線?
・秀吉が茶々を抱き上げるのはちょっと見え見えか。
・それにしても、お万の風呂での尺は長過ぎ。先週の英雄に顔向けできない。
・大河も最近のジェンダー風潮に乗っかって、自立とか、女性が統治したらとか、を入れ込んできて、なんだかなあー。大河なんだから。
・結城秀康はその後どんな行く末かはまだわからないまま、ググらないこと決定。
・来週以降の築山事件の主犯は本当に築山殿なのか、巫女に嵌められるのか、過失か、確信犯か。今週は伏線は見破れなかったなあ。

 
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2023/05/25 22:43
 ユーミさん
 長時間の大作、どうもありがとうございます。
 「女が治めたらいい・・・・」かあ。
 この言葉をきっかけに瀬名覚醒、よかれと思って、政治に介入。→ 巫女にはめられてゴードン勝頼の抑えを自分が仕切った気になるが、→ 嫁が信長にチクる。かなあ。信康のインパクト薄いなあ。
 義昭の挙兵、知りませんでした・・・。「麒麟」で滝藤義昭もそうだったか・・・。忘れてる。実際の兵はどこから借りたんだろ。三好?
 結城秀康と「鎌倉殿」の実朝と重なりましたが、グレずによかったです。
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2023/05/25 21:42
ですが、時代的には珍しくない事だったかもしれません。

家康からは疎んじられていた、お万の方の子供(於義丸?於義伊?義伊松?)後の結城秀康ですが、武将としては後から生まれる長松、後の徳川秀忠より優れていたかもしれません。
惜しくも三十台で早逝してしまいましたが、本多忠信は秀忠より秀康を家康の後継として強く推していた程です。

ドラマではあっという間に追放されてしまった足利義昭に関しても少々。

三方ヶ原合戦における徳川惨敗の報を受けた、義昭は信長より武田信玄と組むべき、と決断して対信長で挙兵します。これが三方ヶ原合戦の翌年の2月。
義昭の挙兵に信長は非常に驚きます。
信長は古い権威を重んじず、むしろそれを破壊する者、というイメージがありますが、実際は権威を非常に重視していて、足利将軍から敵認定されるのは何としても避けたく、自分の子を人質に差し出すので許して欲しい、と申し出ますが義昭はそれを拒否。
信長は相当に粘り強く交渉を続けますが、義昭は悉く拒否。
最終的には、上京に火をかけて義昭を脅しながら正親町天皇に「和睦せよ」という勅命を出してもらって、やっとのことで信長と義昭の和睦が成立します。
これが義昭一度目の挙兵の顛末ですが、この時は信長は義昭を追放しようとはしていません。

同年4月に武田信玄が死去するのですが、義昭は信玄の死を知らずに槙島城(今は無き巨椋池の中の小島に作られた城)に入って7月に2度目の挙兵。
信長は義昭が再度挙兵した場合の準備を整えていたので、あっという間に槙島城を包囲し義昭2度目の挙兵は2週間程度で義昭降伏で終結。
義昭は命はとられなかったものの、自分の子(まだ2歳)を人質に差し出し槙島城を退去し京からも追われます。
ドラマの様にひきずられていったかどうかは不明です。
ちなみに明智光秀は、義昭の最初の挙兵時には既に信長方についておりました。
義昭を足蹴にする、という事も多分無かっただろうと思います。

今週の伏線は、浜松城を退去するお万が瀬名姫に言った科白ではないかと。
女が治めたら良い云々というアレ。
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2023/05/25 20:54
こんばんは^^

冒頭は武田信玄の死からでした。
正に巨星墜つ、という感じ。
信玄の遺言は、その死を3年伏せよ、くらいしかドラマでは言っていませんでしたが、実際はもう少し諸々あります。
勝頼に対しては、信勝(勝頼嫡男)が継承するまで後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事、と言い含めたとか。
これは、信玄が孫の信勝に家督を譲る事を考えていて、勝頼はその繋ぎ、という事になりそうなんですよね。
ドラマでは勝頼に絶大な信頼を置いて後事を任せた感じになっていましたが、実際は緊急時の非常措置だった可能性も有ります。
くれぐれも好戦的になるな、外征にうって出るな、とも言い残していて、戦いにおいては信玄の10倍も慎重に行え、とも言っています。
残念ながら勝頼は、それらを悉く破りましたけど。
守ったのは、信玄の死を3年伏せる事くらいかも。

信康・築山殿事件は、謎が多くて武田が関わったのか否か、関わったとしたらどの程度のなのか、分かっていません。
信康をトップとする岡崎衆の間に、織田との同盟を破棄して武田と結んだ方が良いのではないか、という意見があったのは確かな模様。それに対し浜松の家康は織田との同盟を堅持する姿勢。そこに対立が生じたのは否定できません。
築山殿はどちらかといえば巻き添えを喰らった感じでしょうか。
ドラマではどのように描かれるか分かりませんけど。

さて、タイトルにもなった家康のお手付きです。
まぁ、あの時代にはよくある事だったみたいです、所謂湯殿でのあれやこれやは。
時代を下れば、徳川8代将軍吉宗の生母おゆりの方も、もともとお湯殿係だったそうですし。
ただ、家臣から怒られまた笑われていた様に、あの時代は気に入ったからと言って勝手に手をつけるのは非常に拙い事態です。
側室や妾は、いくら殿さまが気に入ったとしても正室が認めない限り手を付けては駄目。側室・妾選びは正室の正統な権限ですので。
正室の面子を潰された、と瀬名姫が激怒したのは至極当然の事です。

築山殿に忖度してかどうかは分かりませんが、家康は生まれた子供を我が子と認知しませんでした。
信康のとりなしで初めて対面したのが3年後くらいで、認知したのは築山殿が亡くなってから漸くです。
勝手に手を付けておいて生まれた子の認知もしない、現代人の感覚では家康の所業は正にクズ。




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