回顧録
- カテゴリ:日記
- 2023/05/17 17:23:10
定期的に(?)書いている老人の過去の思い出
PARTⅠ
‹注射大好き小学生›
2歳に発病した小児喘息とは約10年間つきあった
記憶がしっかりとしてきた4歳頃からの思い出である
普段はなんともない 走っても息切れは人並みだし普通に遊びまわっていた
だがたまに発作が出る 大抵夜寝る時 息をするたびにゼーゼーする
息が苦しい 眠れない たまりかねて 居間にまだ起きている両親の元に
寝具の一部である丹前を羽織りストーブの前に陣取る
「苦しい 寝れない」どうやってやりすごしたのか
小学校に挙がる頃には 新たな段階に入った
数時間眠れたのか 朝目覚めた私は母親に宣言した
「今日学校休む」まだゼーゼーいってる
母親も心得ていて 登校時間の5分前頃に学校へ電話をいれてくれる
朝の支度をチャッチャと終えて 二人身支度を整えて
母親に手を取られ近所の炭鉱病院に向かう
前にも書いたが北海道最大の炭鉱会社に父は勤めていた
最大なので独自の病院施設を各地に設置していた
それらの全てが各地域での最大総合病院だった
それが炭鉱病院だった
ゼーゼーを直すには注射が一番だと経験で知っていた
(今思うとなんの注射液だったんだろう?)
一通り診断を受け ハイお注射となる
右だったか左だった忘れたが すぐさま私は片手の袖を巻き上げ
「ハイ!お願いします!」
大抵の看護師(当時は婦)や医者は少したじろぐ
子供でも いや大人でも嫌がる注射をこんな小さな子が嬉々として
痛~いいた~い注射針をすぐにでも受け入れんと細っこい手を差し出す
私の中では理路整然としていた 『だって ゼーゼーが楽になるんだもん』
PARTⅡ
‹先生 驚かせてゴメン›
中学生になる頃にはウソのように小児喘息は去っていった
小児性で助かった
翌年の春には高校受験を控えていた中3の夏
鼻が重かった 相変わらず鼻水はでる そんな状態では どうも万全の体制で
受験勉強を迎えられそうになかった
母に訴えた 「僕を病院に連れてって」
そのときは母親に手を取られることもなく近所の札幌医大に向かう
診断された病名は「肥厚性鼻炎」 ただし手術と2週間ほどの入院を要する
どういう病気かというと 鼻腔の組織が肥厚して正常な呼吸を妨げている
手術で局所麻酔をかけて肥え太った組織部分を切開し通常の空間を維持する
願っても無い もうすぐ夏休み 退院した暁には万全の状態で受験勉強に挑める
手術が始まった (チュ~イ~)といった感覚で左右の鼻腔に麻酔液が注射がされる
変な感覚だったが痛くはない
そして読み返してほしい
注射大好き小学生は
注射大好き中学生に成長していた
多少不安なところもあったが想定内だった
安心した私はリラックスしようと両肩を気軽に上下させた
ゴメンナサイ
手術室である 多量の失血を受け止めるために
私の顔面には様々な準備がなされていた
当然執刀医も緊張なさっていたと思う メスを片手に持ち
そんな中で 何を場慣れしてるんだか 両肩を気軽に上下させた
目隠しされているので情景は分からないが こんな声が聞こえた
「痙攣か? 麻酔か?」
やっちまった すぐさま答えた
「ちょっと緊張してたので リラックスしようとして 肩を動かしました」
手術も無事に終わり 予後も良く 初めての入院体験も済まし
その冬の某ゼミナールでは一生の中で一番勉学に勤しめた
(同人誌の準備もしてたんだけどね)
先生 驚かせてゴメンナサイ
PARTⅢ
‹終章›
他の男子よりも2~3年くらいは遅れた声変わりや髭すね毛だけど
その後順調に成長ホルモン 性ホルモンは体内で循環し
そこから体を作って病気知らずの若き我楽多煎兵衛が数十年間活躍した
(活躍し過ぎて家出するという異次元の行動にも出た)
いろんな皆さんの御尽力で今私は生きている
感謝しかない
そして誰よりもこんな私を辛抱強く見守ってくれた父と
手をとって炭鉱病院に連れてってくれた母のおかげで
私は生きている
『あ 爺ちゃん 今回出番なかったね ゴメンネ
でも以前に書いたし これからも出てくると思うよ
笹竹の味噌汁の香りとともにね』
自己を肯定する余り親不孝をしてしまいました
あの時がピークで以下はダダ下がりでございます
え? 思い出を書いてもいいんでしょうか
ダメですよ そんな甘言は
もしかしたらその気になっちゃいますよ
あ そうか かってこんな年寄りがいた という箴言に聞こえます
ありがとうございます
活躍し過ぎて家出する・・・・・少しだけ?長い間?
こうして思い出を日記を書かれている我楽多煎兵衛さんは素敵です