「鎌倉殿の13人」をついに見終わって
- カテゴリ:テレビ
- 2022/12/19 01:58:57
第一印象の冷めないうちに、このドラマだけは個別に書き留めます。いま、横の画面では後半アルゼンチンが2-0でリード中。外は雪。早朝会議後は土曜日の大雪のため、社有車を後輩とふたりで掘り出しです。
さて、今年の大河ドラマは最終回放映前に「オープニング画像解説特番」や「放映直前鎌倉市からの生配信座談会」と観て、正座して臨みました。
毎週の感想はここに短文を書きましたが、ついに全編が終わってしまいました。
三谷脚本に当初、現代語が混じったり、コントがあったり、合戦が省略されたりでグチも書きましたが、振り返るとNHK資本のキャスト組みの凄さから、名優の名シーンにドンドンと先へ先へと引きずられてきた1年となってしまいました。
ラストについては「毒」は使われましたが、まさかの政子には愕然でした。まだ基本の「動機」をきれいに説明できません。直前の頼家の件でしょうか?でも時政も実衣も命乞いして助かったのに。トゥはああいう使い方は読めなかったあ。平和な世が来るからかあ。三浦との最後の心理戦は見事。泰時の凛々しい姿はもっと多めに観たかった。「13」にはちょっとこじつけ過ぎかなあ。運慶のあの像は国宝だろうに。ラストに向かって小池栄子が仏像に見えてきたのに、このどんでん返しで頭ぐちゃぐちゃ。・・・・。
いま、!!サッカーまさかの同点!!
このドラマ総括は悔しいけど自説が固まんないや。見落としや他の解釈、調べなきゃ・・・。
「麒麟が来る」のラストシーンを当てた自負があったのに、今年は完敗でした。
さてさて「どうする家康」はどうなることやら。
ともかく1年間、価値ある時間でした。
また、ここに書き込み、ご解説頂いた皆様に、心より御礼申し上げます。
では、サッカーに戻ります。おやすみなさい。
鎌倉時代は、事実上の北条の始祖扱いです((時政はどうした、と言いたいところ)。
室町時代になっても、人望を裏切らない人、と良い評価。
北条を滅ぼした足利ですが、義時を批判する様な事はしなかった様ですね。
批判するなら、北条高塒という絶好の人がいたためかもしれませんが。
義時の評価が下がったのは、江戸時代以降です。
徳川将軍を頂いて太平の世になると、源氏将軍を追放したり暗殺したりした(とされている)義時は不忠の臣そのものとされたのでしょう。
戦国時代までは、“君君たらざれば、即ち臣臣たらず(菅子)”と、要するに君主が君主として相応しく無ければ臣下も臣下として在れない、思い切り意訳するなら仕えるに値ししねー奴にはマジ仕えてられねーよ、という考え方でした。ある意味、下剋上上等、という感じです。
それが江戸時代になると、“君君たらざるといえども、臣臣たらざるべからず”、君主が君主として相応しく無くても、臣下は最後まで臣下として在れ、という感じに変化しました。
それにともない、義時は陰険な策謀家とされていった様ですね。
明治時代になると、三人の上皇を流刑にし、一人の天皇を廃位した、極悪非道の大逆臣にされてしまいました。
この歴史観はかなり根深く根付いてしまった感がありますね。
「鎌倉殿の13人」というドラマの義時に対して、ダークサイド墜ち、闇墜ち、という感想が多かったのも、結局この歴史観が根っこにあるのかな、と思ってきました。
ただ、少なくとも戦後の宮内庁が歴史上の人物に対する印象操作を行っているとは思いませんが。
戦前の宮内省でも表立ってはやってないのではないでしょうか?
近年は研究も進み、頼朝の死には関わっておらず、実朝の暗殺事件にも関与していないだろう、とされていますね。
義時の為人を示す信頼できる一次資料が少ない中、派遣された地頭の横暴を訴えた農民に応えて出された改善を指示する書状は、彼の誠実さの一端を示すものかもしれません。
北条義時という人物を、降りかかる災難に振り回され続ける一生で、自分の身と親族を守る為に戦い続けた結果最高権力者に“なってしまった”、と評している近年の歴史学者もいます。
これ、ドラマに描かれた義時そのものじゃないですか?
政子もそれを自覚していると思うんですよね。
最初は薬を渡そうと思っていたであろう政子を思いとどまらせたのは、義時の後鳥羽院の子である仲恭天皇が返り咲こうとしているのを何とかしなければ、という言葉でしょう。なんとかしなければ、は殺すと同義。この時の仲恭天皇はまだ幼い子供です。
鎌倉の為、我が子太郎(泰時)の為、尚も手を汚そうとする弟義時を止めなければならない、とこの瞬間に姉たる政子は思ったのだ、と私は感じています。
弟にこれ以上修羅の道を歩ませたくない、という思いから薬を飲ませなかったのでしょう。
それが、意図せずに弟を修羅の道に引き摺り込んでしまった姉に出来るけじめであり責任の取り方だったのではないか、と。
義時の死の約一年後、政子も病床につき亡くなります。
病死とは思いますが詳細は不明です。
この時点で、後鳥羽院から不要な駒として切り捨てられたのでしょう。
その後後鳥羽院は、義時追討の院宣を取り消し、秀康らの捕縛を命じる院宣を出しています。
後鳥羽院は武芸にも相当な嗜みがあり、多分義時よりもよほど腕がたったと思われますが、この時代では既に天皇や上皇が陣頭に立つ、という概念が無かったのかもしれません。
ところで、泰時が乗った筏を押していた平盛綱が矢に射られ、泰時に檄をとばしたあと川面に倒れ込んでいいました。
盛綱が北条氏得宗家の家令になると知っていましたので心配はしませんでしたが、知らなければ盛綱が死んだ様に見える場面でした。あとで突っ込まれてましたしね。
官軍が敗北し、鎌倉方によって天皇や上皇さえ裁かれる事になった訳ですが。
隠岐に流されることになった後鳥羽院は大変狼狽していましたが、いざ隠岐に着いてしまうと平静を取り戻したらしいです。
島民からも「後鳥羽んさん」と親しまれたらしいですし。
隠岐は今でも闘牛が有名ですが(隠岐に旅行にいった時に見た事があります)、これを喜んだ、ともありますね。
鎌倉憎し、義時憎し、の気持ちが無ければ優れた人物だったんでしょうね。
実際一流の文化人で、新古今和歌集の編纂を命じた人でもあります。
隠岐では、それの改訂に勤しんだらしいです。
承久の乱とその後始末が終了すると、とうとう義時のファイナルステージが始まりました。
彼の最期をどうするのか、と思っていましたが、脚本の三谷氏は妻による毒殺説を採用されましたね。
藤原定家の明月記に記された、承久の乱の6年後に捕らえられた尊長が義時の妻が義時を殺した毒で自分を殺せ、と叫んだ、という話から義時毒殺説の元になっている訳ですが、信憑性の有無は分かりません。
個人的にはあまり信憑性は無いと思っていますが、実証不可能な事ですね。
ただし、最終的に義時を死に至らしめたのは、毒消しの薬を飲ませなかった政子でした。
とどめをさした、とも言われていますが…
個人的には、慈悲の心で姉が弟を救ったのだ、と思っています。
直前に明らかになった頼家の死の真相に、心が全く揺らがなかった訳ではないと思いますが、薄々気づいていたと言っていますし、悲しくても過去の事と割り切れたのでは?
「鎌倉殿の13人」がとうとう最終回を迎えました。
いいかげん飽き飽きしていた戦国・幕末ものではなく、興味がある鎌倉創建期ということで興味津々で視聴を始めたのですが、視聴を進めるに従って引き込まれて行きました。
まぁ、私の推しキャラは北条時房であって、義時は時房の兄としてしか見ていなかったんですけどね。
冒頭は、まさかの吾妻鑑を読み耽る徳川家康(というか、多分まだ松平元康?)という、まさかの次回大河の主役をぶっこんでくるとは思いませんでした。
確かに、家康は吾妻鑑を愛読者で源頼朝を尊敬していたらしいですけど。
頼朝の死のあたりの吾妻鑑の記載が欠けているのも、嘘か本当か家康が頼朝の不名誉な記述を隠すために敢えて欠落させたとかなんとか。
勿論、実証できない事でそういう通説もある、という程度の話です。
さて、その承久の乱。
官軍を迎え撃つ、という論調が強かった中で積極攻勢をかけるべき、と大江広元が進言した事は知っていましたが、そこに三善康信も加わっていたとは知りませんでした。
ただ、時間経過と共に官軍が有利になるのは確かなので、二人の積極論は正鵠を射たものだったと言えるでしょう。
僅か18騎で進軍を始めた泰時総大将の鎌倉軍が、19万は過大すぎるにしても大軍に膨れ上がったわけですし。
史実はいざしらず、ドラマ内では裏切りを狙っていた三浦義村は当てが外れて臍を噛んでいたのでは、と描写の無いところを想像してしまいました。
対する官軍は、挙兵しておきながら兵を集めるのが遅く、集まった兵は鎌倉方より少なく、と戦略的に最初から破綻しているに加えて、少ない兵力を分散させると言う戦術的な失敗もしています。
官軍総大将の藤原秀康は、一か月で鎌倉を陥としてみせる、と豪語していましたが実際はあまり将才は無かったのかもしれません。個人の武芸は秀でていたのかもしれませんが。
京方にとっては最終防衛ラインと言える宇治川の戦いも、泰時の策で突破。
和田の乱の時もでしたが、民家を壊して筏を作るって強引な手段です。補償なんてしなかったでしょうし。
宇治川を突破された後、藤原秀康と三浦胤義が後鳥羽院に出陣要請をして院も一旦はその気になりながら結局実現しなかった、と描かれていましたが