Nicotto Town


人に優しく


正直


「きっと、人の手が届かない領域は案外広いんだよ」と佐々井が言った。

「高い棚の隅に何か小さなものが置いてある。人が下から手を伸ばして取ろうとするけれど、ぎりぎりの隅の方だからそこまでは手が届かない。踏台がないかぎりそれは取れない。そういう領域があるんだ」

「そんなものかな」とぼくは言った。

佐々井が奇妙なたとえばかり出すので、ぼくの方は少々あきれていたのかもしれない。

彼はゆっくりとグラスの中身を口に含んだ。

「おもしろいのは、それでもその棚の上に何があるかを人が知っていることさ。棚はガラスでできていて、下から見える。同じ色に染めることはできなくても、色の違いは人の目に歴然とわかるんだ。だからイライラする」

「あの主任か」

「そうだよ。あの日、主任があんなに怒った理由は、きっとそこのところにあるんだ。同じ色に染めあげるってことがどうしてもできないのを、あの人はいつも心の底で不満に思っている。その不満がたまに、あの時みたいに、まとまって出るんだよ」

「あの時は怒鳴られたけど、彼はいい人だよ。あの人の考えていることは、そばにいると全部わかってしまう」

「うん、正直なのさ、あの人は」





ー 『スティル・ライフ』 池澤夏樹 ー




 




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