ジュンチャンと世界を巡る 第109回はエチオピア
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2022/09/02 05:40:17
今回は青ナイルの母国エチオピア、この国は不思議の国でもある。
牧師の家に生まれ、牧師となる人生を歩み始めている神戸在住の友人が、中学時代のテニスの練習の合間に、旧約聖書の一節に登場するシバの女王の国のことを話してくれたことがあった。(旧約聖書以外に、シバの女王の国を記載した書物は皆無という。)
それは邪馬台国の謎にも似たもので、イスラエルのソロモン王とのラブロマンスで有名な、女王に統治されたシバ王国が、実際にはどこに存在したのかというものだった。
アラビア半島のイエメンのマーリブにあったというのが一番有力な学説(僕の友人もシバ王国マーリブ説である。)だが、その他にもエチオピア正教徒全員が信じている、シバの女王の国はエチオピアのアクスムにあったという学説がある。
他にも学説はあるが、有力なものはこの二つ。
今回の旅では、シバ王国に憧れイエメンのマーリブへの旅を計画している牧師の友人の代わりに、同じくシバ王国があった地とされているエチオピアのアクスムに立寄った。
シバの女王の国があったとされる国で、彼の代わりに、イエメン産ではなく、エチオピア産の飛び切り上等なモカコーヒーを飲むのが、僕の今回の旅の一つの大きな目的となった。
ところで、シバ王国があったとされるアクスムには、モーゼの十戒の書かれた石板を納めた「契約の箱(聖櫃)」もあるという。
聖櫃への誘いとして必見の、インディ・ジョーンズの冒険のNO.I「レイダーズ、失われた聖櫃(せいひつ)」は、聖櫃の行方を学問的に調査していた考古学者のインディと、聖櫃の計り知れないパワーを利用し世界制覇をもくろむナチスが、エジプトの古都タニスの大掛かりな発掘現場で聖櫃発掘の先陣争いをするというストーリー。(スピルバーグはアクスムに聖櫃があるとはしていない。)
「聖櫃」はアクスムにあるとしているのは、グラハム・ハンコックとエチオピア正教徒全員である。
グラハム・ハンコックはジャーナリストから出発したイギリス人ベストセラー作家で、彼の成功は、失われた「契約の箱(聖櫃)」の行方と神秘を壮大なスケールで調査した『神の刻印』の出版がきっかけだった。
1992年にグラハム・ハンコックが著書『神の刻印』で発表したところによると、「聖櫃」は1000年以上前からここエチオピアのマリアシオン聖堂に納められているという。
「聖櫃」がここにある経緯だが、旧約聖書の列王記によると、紀元前10世紀頃、シバの女王がソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するために、遠方のシバ王国からエルサレムのソロモン王の元を訪れた。
エジプト型中央集権統治と多民族的国家を成立させ、イスラエルに古今未曽有の繁栄をもたらし、いわゆる「ソロモンの栄華=異教的宮廷文化」を享受した黄金時代の出来事である。(7年をかけ建設されたソロモン王の大神殿に、聖櫃は安置されていた。)
その来訪には大勢の随員を伴い、大量の金や宝石、乳香などの香料、白檀などを寄贈したとされる。
やがて女王とソロモンは恋に落ち、女王は身籠ってシバ(旧約聖書の記載はないが、ここではシバはエチオピアにあったとする。)に戻った。
二人の間に生まれたメネリクは十数年後エルサレムを訪問し、エチオピアに戻るときにソロモンから聖櫃を貰い、持ち帰った。
その後、幾多の紆余曲折を経て、聖櫃はアクスムのマリアシオン聖堂に安置されている。(もちろん、聖櫃の行方には様々な説があり、エジプト王シシャクの略奪によるタニス説(在エジプト)、バビロン捕囚の際にバビロニア人が持って行ったとする説(在イラク)、中世テンプル騎士団が発掘したとする説(在ヨーロッパ)、ナチスから米軍が奪い去ったとする説(在アメリカ)、今もイスラエルにあるとする説(在イスラエル)、など。)
聖櫃を守るのはたった一人の修道士、彼だけが真実を知っている。
彼はこの仕事のため、数十年風呂に入っていないので、臭かった。
グラハム・ハンコック説は、小説家ゆえの推理から出た想像がかなりあり、ほとんどの学者からは信ぴょう性がないと酷評されているが、エチオピア人の半数以上を占めるエチオピア正教徒の方々には、ハンコック説は聖櫃にも値する価値のあるものとなっている。
アクスムには聖櫃安置の教会も、シバの女王の浴槽や彼女の王宮もあった。(旧約聖書そのものの世界が、ここには確かに存在していた。)
エチオピア高原の北東部標高2,630mの地に、一枚岩を掘り下げて築かれた11もの教会が残る、人口約15,000人程の村がある。
第2のエルサルムとして建設されたラリベラの都である。
ソロモン王とシバの女王との間に生まれたメネリク1世(紀元前1000年頃)によって創設されたといわれるアクスム王朝は、7世紀ごろから勢力を伸ばしたイスラム軍のため、10世紀までには領土のすべてを失った。
1130年代に、新しいキリスト教を信奉するザグエ家が興り、ロハ(現在のラリベラ)をその首都とし、ザグエ王朝を築いた。
ザグエ王朝7代目のラリベラ王は、エルサレムへの道がイスラム教徒に占領され、巡礼が困難になったため、この地にエルサレムを模し、岩をくりぬいて第2のエルサレムを建設した。これが現在世界遺産となっている、ラリベラの岩石教会群である。
第2のエルサレムとして築かれたラリベラの聖地には、聖書に描かれたさまざまな場面が再現されている。
キリストが誕生したベツレヘムの馬小屋、キリストが洗礼を受けたことを示す岩の十字架が河岸に建つヨルダン川、キリストが捕らえられ昇天したとされるオリーブ山やゴルゴダの丘など。
実際のヨルダン川だが、乾期には水はほとんどなく、巡礼者やそのまま居ついた浮浪者の排泄物が辺り構わずうず高く堆積しており、異様な臭気を撒き散らせていた。
聖地ではあるが、巡礼者から身を落としこの地に住みついた浮浪者や乞食の群れがどこの教会の近くにも居り、キリストの加護がこの人々にどのような形で届いているのか不思議に思えた。
しかし、ここでのキリスト教は、神の名によって先住民とその文化を駆逐して世界制覇を成し遂げたヨーロッパのキリスト教とは明確に異なる。
「人間はちっぽけな存在で神の計画に参加しようなどというのは傲慢、人間は何もしないで教会が定めた祭日を守ってただ神を賛美していればいい。祭日は1年に360日あるので、結果として、真面目な教徒は月に10日くらい働き、不真面目な教徒が月に20日くらい働くということになる。」これが、エチオピア正教の本質であり、物質的な貧しさの源泉となっている。
ただ偉大な聖櫃の力は、イスラムやヨーロッパ列強の侵略を許さず、エチオピアの民のために、物質的には貧しいが、考えようでは豊かな社会を永遠に与え続けて来たようにも思える。(子ども達の表情は底抜けに明るく、シバの女王の末裔としての誇りがあった。)
次回も東アフリカの国々を紹介します。
引き続き気楽に遊びに来てください。( ^)o(^ )