がんばった
- カテゴリ:子育て
- 2022/08/20 11:56:29
「みんなそうだったのね。どうしても死ねないと思いながら、たくさんの人が帰れなかった。あの時、起こったのは、そういうことだった」
私は女のそばに腰を下ろし、しんと光るホームを眺めた。
風のない、穏やかな午後だ。
さらさらと透明な砂をまくように静かな時間が流れていく。
帰れなかったという女の声が、小さな波を立てて胸に沈んだ。
違う、と思う。
あそこにあったのは、あの体が引き裂かれるような苦しみが意味するものは、そんなかんたんなものではないはずだ。
「でも、帰ろうとしました。走って、こわかったけど、最期まで。私だけじゃなくて、あなたや他の人たちもそうだった。だからこんなところに残っちゃって辛いんじゃないですか。がんばりましたよ、私たち」
振り払えない怒りが火焔のように口からあふれる。
女は少し間を置いて、長く息を吐いてから「やさしいのね」と言った。
「そうね、その通りね。がんばった。……だから、わかってくれると思う」
最後の一言は、すでに思い出せない彼方へと宛てる声だった。
女は、自分が迎えに行くはずだったもののことを、少しは思い出したのだろうか。
どんな姿の、どんな名前の、どんな声をした赤ん坊だったのだろう。
ー 『やがて海へと届く』 彩瀬まる ー