Nicotto Town


安寿の仮初めブログ


『PLAN75』を見てきました。



『PLAN75』を見てきました。

75歳以上の高齢者が安楽死を選ぶことができる。
そんな制度が実現した日本社会で、
安楽死を選ぶ二人の高齢者と、
その手続きやサポートに携わる二人の若者、
そして「後処理」に携わる一人の外国人労働者のお話。

この映画を見つつ、
国民国家とその主権者たる国民、そして、
生活世界とシステムという言葉が思い浮かびました。

国民国家は、主権者たる国民が、国民の生活を守るために、
社会契約によって権利の一部を政府に移譲することで
生み出したと位置づけられる国家です。

そして確かに国民国家は、
国民経済を拡大し続け、
国民皆保険・皆年金といった社会保障制度を整備し、
国民の教育に力を注いできましたが、
同時に、そのようにして保護され、育成されてきた国民の諸力を、
国民国家のために動員してきたとも言えます。

国民国家は、国民経済を発展させるために公共事業を行うと共に、
公共事業によって可能となった経済成長の成果を税という形で回収し、
更なる公共投資へと振り向けましたし、
健康保険制度の整備は、国民の健康を維持管理すると共に、
健康な肉体を持つ国民を数多く育成して、
彼らを兵士として徴収してきました。

そして、国民の多くも、国民国家というシステムを前提にして、
その上で、自らの人生を形作り、自分の将来を思い描いてきたわけです。
経済成長は安定した収入を保障し、安定した収入の見通しが立つがゆえに、
長期にわたる住宅ローンの返済も可能になりました。
今日、子どもを養育することは、保育園や義務教育の存在を前提にしていますし、
老後生活は年金収入を前提にして、初めて思い描くことができます。

ですが、そのような人生は、
システムあっての人生であり、将来であるとも言えます。
ですから、その人生がシステムの存立と相容れなくなると、
システムの存立と相反することがないように、
人生の幕引きが「提案」され、手続きへと「誘導」され、
手厚いをサポートを伴いながら「処理」されていくことになるのです。

そして、その手続きとサポートを若い世代が担当していくことになります。

社会から余計者扱いにされて寂しい思いをしている高齢者がいるのなら、
一時を、その高齢者と共に過ごしてあげればいいだけのことなのですが、
PLAN75では、寂しい高齢者に対して死を提案していく。
「終活」を提案し、自分の死を自分自身で決めることが
自律/自立した生き方であるかのように語っていく。
そして、死へと促していくために、手厚いケアをし、サポートしていくのです。

しかし、ケアやサポートは本来生きるためにあり、
ですから、ケアやサポートをする/受けることで、
そこに何かしらの関係というものが生まれてくれば、
ケアしてくれたあなたと別れたくはなくなる、
ケアしたあなたに死を選んでなんか欲しくはなくなるのです。

  私との関係は、あなたにとって何だったのですか。
  私との関係も、結局はあなたを死へと誘い、
  死を選び取らせるようなものに過ぎなかったのですか。

しかし、若い世代も、
国民国家システムの上で人生を成り立たせている以上、
PLAN75の窓口職員、あるいは提携団体のコールセンター職員として、
このシステマティックな「大量虐殺」に携わっていかざるをえません。
その「親身」な対応を制度利用者から高く評価されるような「死神」として、
この業務を務めて行かざるを得ません。

そして、死の「後処理」を請け負う産業廃棄物処理業者。
遺体は、もはや「御遺体」という扱いではなく、
最後に身に付けていた品々は、「遺品」という扱いではなく、
すべては手際よく分類されて、処分されていきます。

古株らしい作業員は、
その品々から使えそうなものやお金になりそうなものを、
何のためらいもなく、「着服」していきます。
なぜなら、それらをそのまま処分したら、
それらは、文字通り産業廃棄物として処理されていくからです。

ですから、ここでは「着服」すらもが、
その死を「無駄にしない」「生かす」行為となりうるのです。

そんな古株の作業員から高そうな時計を押しつけられて、
外国人労働者は、最初戸惑いますが、そのような現場を受け入れていきます。
彼女にはお金が必要だからです。
お金を必要とする人々、例えば底辺労働者や移民や難民に、
自分ではしたくない仕事を押しつけていく。

そのような仕事を生み出し、
そのような仕事で生きて行かざるを得ない人々がいて、
初めて成立しうるPLAN75というシステム、国民国家というシステム。


その点で、高齢者だけでなく、若者も外国人労働者も、
皆、このシステムのどこかに繋ぎ止められ、
システムの論理に従って、その生を成り立たせている。
だからまた、システムの論理に従って、死を選び、死を促していく。

誰もがそのようにして生きていくこと/死んでいくことの悲哀。

1980年代に、ユルゲン・ハーバーマスという社会哲学者は、
このような現代社会を「システムによる生活世界の植民地化」と表現しました。
同時に、反核反戦運動・環境運動・フェミニズムなどは、
このシステムに対する生活世界からの異議申し立てとして起きていると
ハーバーマスは指摘しました。

ですが、この映画にも、そして私たちの生活にも、
異議申し立てを行う際の拠点となるような生活世界は、
もう存在していないような気がします。

このようなシステムの論理のおかしさを、
システムに支えられた私たちの生活のおかしさを、
照らし出すことができるような、
人間自身の相互関係に支えられた生活世界を私たちは持っているでしょうか。
私たちの生は、すでにそのすべてが
市場経済のシステムと公的制度のシステムの上で行われ、
親しい人が亡くなったにもかかわらず、
感染拡大は防がなければならないし、
遠くの親戚を呼び寄せるのは悪いし、お金もかかるだろうと考えて、
葬儀自体を自粛してしまうような人生なのです。
  


国民国家が国民主権の上に成り立つシステムであるのならば、
このような国民国家システムに対する対抗策は、二つあるように思います。

1)国民がその主権者たる立場から、
   国民国家システムに対して「よりよき生」の実現を求めていくこと。

   ですが、この対抗策こそが、国民国家システムを拡充させ、
   システムによる国民生活の維持管理と能力開発を招き寄せたとも言えます。
   ですからまた、システムのお荷物であるような生産性のない人間は、
   システムによって処分されようとしているのです。

     ですから、もう一つの方法として

2)国民国家システムから降りてしまう。
  そして、もう少し身近な生活世界の範囲で、自らの生を形作っていく。

  アナーキズム的・農本主義的・共同体主義的な発想で、
  これもまたユートピアかもしれませんが、
  いい加減、現在の日本社会から降りたく思っている安寿には、
  何度となく思い描いた「甘いささやき」なのです。

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2022/07/29 10:12
>Lydiaさん

はじめまして。

この映画が作られた、そもそもの契機は、
監督によると「やまゆり園」の事件だったそうです。

そう、この作品は、現代の姥捨て山、
「終活」という名の大量虐殺を描く作品なのですが、
しかし、物語は、この悲劇を大仰に描くのではなく、
何かを告発するのではなく、静かに静かに進んでいきます。

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2022/07/28 18:59
なんだか「ヤマユリ園」の事件とか安楽死
映画「楢山節考」を思い、ちょっと暗い気分になりますが
観てみたいと思います
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2022/07/27 13:34
>りゅぬさん

ありがとうございます。

『砂の女』が失踪三部作の一つであることは、すぐに分かったのですが、
後の二作は知りませんでした。
『燃えつきた地図』を読んでみようかな。

安部公房の作品は、読むとゆっくりと狂っていく感じがあって好きです。
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2022/07/23 15:47
>りゅぬさん

安部公房の失踪三部作って、
『砂の女』と、それから何ですか。
『壁』?



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