ジュンチャンと世界を巡る 第95回はイースター島
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2022/05/27 06:06:49
今回はチリに属するイースター島を紹介します。
イースター島はチリ領の太平洋上に位置する火山島で、現地語名はラパ・ヌイ(ポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」を意味する)、正式名はパスクア島(スペイン語で復活祭;イースター)と呼ばれています。
モアイの建つ島として有名で、ポリネシアン・トライアングルの東端に当たり、最も近い有人島まで直線距離2000km余と周囲にはほとんど島らしい島が存在しない絶海の孤島となっています。
かつては、テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)、マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれ、これらの名前は19世紀の後半に実際に島にたどり着いたポリネシア人が付けたものです。
海底火山の噴火によって形成された島に最初の移民がたどり着いた時期については諸説がありますが、ここでは西暦500年頃にたどり着いたという説で説明しますが、中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派、いわゆるポリネシア人が最初のイースター島民となりました。
上陸したポリネシア人は鶏と大型のネズミ、ラットを共に持ち込んで食用としました。
ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会であり、酋長の権力は絶対で、厳然たる階級制度によって成り立っていて、部族社会を営むポリネシア人にとって偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者たちの霊を部族の守り神として祀る習慣がありました。
7世紀〜8世紀頃に、アフ(プラットホーム状に作られた石の祭壇)作りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになったとされています。
他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工しやすい軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことで、採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡です。
モアイのデザインは時代につれ変化していき、第1期は人の姿に近いもので下半身も作られており、第2期は下半身がなく細長い手をお腹の辺りで組んでいて、第3期は頭上に赤色凝灰石で作られたプカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてあり、第4期になっていわゆる一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになったのです。
18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器や鉄器の存在は確認されておらず、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえます。
よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられているのです。
モアイ文明が何故崩壊したのかは諸説あり、自然破壊(モアイを作り、運び、建てるためには大量の木材が必要で、伐採によって森が失われ、究極的に文明が崩壊)や部族抗争(人口爆発と共に森林破壊が進んだ結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じた。)による自滅が原因とする説、環境が激変したため(ネズミによる食害により森林が破壊された)とする説、西洋人による侵略とする説(ヨーロッパ人による苛烈な奴隷狩りと外部から持ち込まれた疫病の流行)とする説があります。
西洋人による侵略とする説が有力で、18世紀〜19世紀にかけてペルー副王領政府の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、島民が奴隷として連れ出され、1840年頃に最後のモアイが倒され、1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時の島民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致され、また外部から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果、人口は更に激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時ではわずか111人でした。
1888年にチリ領になり現在に至っていますが、急激に数を増しつつあるチリ本土からの移住者に土地や仕事や文化を乗っ取られつつあると考える現地住民の懸念や怒りがあり、独立運動が起こっているのです。
ここから、「モアイ像の島イースター島」の観光紹介です。
まず、アフ・トンガリキです。
ここはイースター島観光のハイライトと言っても過言ではないほど高い地名度と人気を誇る観光スポットで、かつて島内最大規模の集落があったと推測される場所で、両翼100m、計15体のモアイ像を有するポリネシア圏最大の遺跡として知られています。
トンガリキは島の言葉で「王の港」を意味し、その名の通り島内で最も標高の低い場所に造られています。
1960年に発生したチリ沖大地震では、津波によりアフそのものが形を失くしてしまうほど深刻な被害を受けてしまいましたが、日本企業の援助によって1995年に修復が実現したといわれています。
古くから集落として栄えていた地域なので、周辺には魚や鳥人などが描かれた岩絵も多く残されており、かつての繁栄ぶりを伺うことができます。
次に、アナケナ・ビーチです。
ここは島の北東部に位置する白砂のビーチで、海水浴やシュノーケリングを楽しむことができ、砂浜のすぐ横には1960年にタヒチから移植されたといわれる背の高いヤシの木が立ち並んでいて、素敵な南国ムードを味わうには最適な場所です。
また、ビーチの駐車場から砂浜へと向かう途中には「アフ・ナウナウ(Ahu Nau Nau)」という、イースター島で最も保存状態が良いモアイ像が立ち並んでいて、これらのモアイ像は比較的新しい時代に製作され、長い間土に埋もれていて風化が進まなかったため、非常に良好な保存状態が保たれているのが特徴です。
像の背中や祭壇の壁面に、動物や幾何学模様などのレリーフが残っているのは、島内でアフ・ナウナウのモアイ像だけであるといわれています。
最後に、アフ・ビナプです。
ここは島内で唯一、女性のモアイ像が存在するとされる遺跡で、主な見どころは精巧に造られた2つの祭壇で、プレインカ文明を思わせる高度な石組みが注目を集めています。
周辺にはモアイ像がいくつか転がっていますが、潮風などにより風化が進んでいて保存状態があまり良くありません。
モアイ像が目当てというよりは、祭壇を見学しに訪れるスポットであると言えるでしょう。
他の観光名所と比較すると迫力に劣るかもしれませんが、静かな環境で歴史の趣を堪能したい方にはぴったりなスポットです。
今回でポリネシアの国々は終了、次回からはいよいよ最後の大陸で人類発祥の地でもあるアフリカ大陸の国々を個別に紹介します。
引き続き気楽に遊びに来てください。( ^)o(^ )
でも、1回はイースター島に行ってみたいです。
モアイ顔の人間なら日本にもいますね☆