Nicotto Town


ガラクタ煎兵衛かく語りき


さらば 北方領土



 私の母の父(要するに母の実家)は札幌で園芸業を営んでいた。
年に数回か、数年に一回か忘れたが、母の長兄はその父の命により、
道東のある港から、国後(クナシリ)島へ船で渡り、
カラフトマツとか盆栽みたいな植物の買い付けに行き、帰札後、買ってきた
良質な樹木の苗を育て上げ、時には品評会みたいな大会で受賞したりもした。
大正時代から昭和初期の頃である。

 敗戦後、渡航が不可能になり、家業を受け継いだ長兄は職種を変え、
物資が少なかった時代ではあったが、新たに卸売り業を興し、
その商才を発揮し、札幌でも有数の卸売り専門店になった。

 長兄からかなり年の離れた私の母は、お嬢様として、現在の札幌東高等学校の
前身である札幌高等女学校に通い、隠れ委員長として、大変優秀な成績をのこした。

 女学校を卒え、その時は家長となっていた長兄はこのキツネ目の妹の、
最高の縁談を画策していた。嫁がせるなら、最高の会社に勤めている、
将来が万全なところがいい。

 敗戦後間もなくである。復興である。生産である。時代変革である。
当時の北海道におけるリクルート人気(w)№1は、鉱工業のトップにある
北海道炭鉱汽船株式会社に代表される、石炭産業だった。




 少し時代は遡る。




 私の父は室蘭工業大学の前身である、室蘭工業高等学校の採鉱科を、
優秀な成績で卒業した。実家のある歌志内(当時は村?)に帰り、
堂々と上記の北炭に入社し、同期入社との競争が始まった。
前途洋々だった。


 そして、戦争が始まった。


 様々な理由をつけて、多くの同期達は会社に残ったが、
父は赤紙を唯々諾々と受け入れ、連書が同心円状に墨書きされた、
でっかい国旗を少ない荷物に大切に収め、歌志内駅から満州に飛んだ。
(その日の丸は今もなお私の和室の仏壇の引き出しに納められている)

 敗戦後、帰還した父は歌志内に戻り、所属していた北炭に復帰した。
かっての同期達は数年のブランクの間に、社内の中枢に入り込み、
帰ってきた父に現場(採炭、すなわち地下数十メートルでの勤務)の仕事を与えた。
例えが順当かどうかわからないが、本来キャリアの人物を、
ノンキャリの最前線に送り込んだのだ。

 大会社だったので、組合も存在していた。
私には父のような根性も能力もないが、父が組合で大暴れ(別に暴力ではない)し、
末端の採炭員から絶大な支持と信頼を得たのは、誇りである。

 そんな時である。父に縁談が持ち上がったのは。なんでも相手は札幌のお嬢様だとか。
 そんな時である。母に縁談が持ち上がったのは。長兄はブランド志向だったのだ。




 札幌のお嬢様が坂道だらけの歌志内村の、しかも粗末な造りの炭鉱住宅に嫁ぐ。
辺りを流れている河は真っ黒。買い物をする店は、札幌とは別な意味での喧騒。
炭鉱特有の三番型制度。8時出勤、16時出勤、24時出勤。シフト制だ。
夫を慕う、言葉の荒い部下が複数で恐縮しながら訪ねてくる。酒を出さねば帰らない。
山羊をいやいや飼い、その乳で姉をそだてた。
義理の父は優しい人だったが、20匹ほどの鶏を鶏小屋で育てていた。
新鮮な卵は有難かったが、それでも時折り儀式が始まる。
(いまだに判然としないのだが)宣言がある「今日一匹(【しめる】なのか【ひねる】なのか
わからないが)食べよう」、その結果、首を切られて頭部のない鶏がバタバタと、普通にみんなが住んでいる茶の間を走り回るのだ」
姉たちは阿鼻叫喚。今思えばその時私はなまの生物学に触れたのかもしれない。



<こっからグロ、要注意>







 しめられた(ひねられた)鶏の胴体を、眉をしかめてさばいているのは母(お爺ちゃんかな?)だ。
末っ子の特権でわたしはそのすぐ傍で気楽に見ることが許された(姉達はとっくの間に出ていった)。
その中で、唯一、圧巻だったのは(メンドリの場合だけど)輸卵管の長さとその内容物だった。

 (おそらく卵巣から始まり、生きて明日の排卵を待つだけというタイムラインの終着の長さの間に、
およそ(適当)10形態の”卵”が順番に管の中に並んでいたのだ)

最初の方は良く覚えていない。でも、真ん中に差し掛かるといわゆる”普通の黄身”がただそれだけで存在し、後になるにつれ、
黄身が大きくなり、更には殻なのか膜のようなものを帯び始める。


 当時(今も)ばかだった私は【進化】という、そんな年では聞いたこともない、
でも、概念として感じ取っていた言葉をなんとなく感じ、目をみはった。
(正確には【成長】あるいは【発生】でした)






<グロ終了、ご安心召され>


 今でも3人のうち、2人の姉は鶏肉を食べられない。





 園芸業の娘なのか、母はお返しに、庭にダリアやグラジオラスをねだった。
その後、父の花芋管理は日課になった。
次第に父の厳しい目が穏やかになっていった。組合活動とも離れ、
自分の父を送り、遊びたい盛りの6,7歳の息子(自分)を度々会社の(めちゃビッグ)社員浴場へ連れていき、仕事を無事終えた部下達(いや、仕事仲間ですね)
と一緒に汗を流した。
厳格で、厳しくて、でも優しい係長さんの息子は皆さんに愛された。



 思うに幼少時の多幸感は一生消えないと思う。
自己承認欲求は時折りほんのちょっと揺れたけど、
幼い時に愛された記憶は棺桶まで持っていけると思う。
今さらプーチンが幼少時不幸だったのを彼に慰めようとしても遅いんだね。








 ロシアで9日、北方領土に外国企業を誘致するため免税特区を創設する法律が、
プーチン大統領の署名で成立した。
事実上、北方四島の日本への不返還を宣告したものである。
鈴木宗男、貴子親子、シンゾーの努力は水泡に帰した。





 今もあの素敵なカラフトマツは見事な枝葉を大空に拡げているのだろうか。
母の長兄が目を輝かせながら、クナシリに分け入ったのが、100年前か。
世紀を越えれば、今どうなってるか報告できるかもね。
 

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2022/03/12 10:22
北海道は我楽多煎兵衛さんのルーツでもあるのですね。
北方領土に思う所が色々とあるでしょうね・・・
アバター
2022/03/11 01:27
よく覚えますね

そう

鶏は、頭なくても走るんですよね

なんとなく幼少期に見た記憶があります

お刺身にして食べました




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