もう何ともない
- カテゴリ:恋愛
- 2022/02/19 15:57:11
お雪は黒目がちの目でじっと此方を見詰めながら、「あなた。ほんとに能く肖ているわ。あの晩、あたし後姿を見た時、はっと思ったくらい……。」
「そうか。他人のそら肖って、よくある奴さ。」
わたくしはまア好かったと云う心持を一生懸命に押隠した。
そして、「誰に。死んだ檀那に似ているのか。」
「いいえ。芸者になったばかりの時分……。一緒になれなかったら死のうと思ったの。」
「逆上せきると、誰しも一時はそんな気を起す……。」
「あなたも。あなたなんぞ、そんな気にゃアならないでしょう。」
「冷静かね。然し人は見掛によらないもんだからね。そう見くびったもんでもないよ。」
お雪は片靨を寄せて笑顔をつくったばかりで、何とも言わなかった。
少し下唇の出た口尻の右側に、おのずと深く穿たれる片えくぼは、いつもお雪の顔立を娘のようにあどけなくするのであるが、其夜にかぎって、いかにも無理に寄せた靨のように、言い知れず淋しく見えた。
わたくしは其場をまぎらす為に、「また歯がいたくなったのか。」
「いいえ。さっき注射したから、もう何ともない。」
ー 『濹東綺譚』 永井荷風 ー