美しいがな
- カテゴリ:恋愛
- 2021/10/23 10:42:42
自分を醜いと信じているこの少女は、咄嗟の間に、いつも抑えつけていたいちばん心の底からの質問を、それもこの若者にむかってしか決してしなかったであろう質問を、思いがけず口走った。
「新治さん、あたし、そんなに醜い?」
「え?」
若者は測りかねた面持でききかえした。
「あたしの顔、そんなに醜い?」
千代子は暁闇が自分の顔を護って、ほんの少しでも美しく見えることをねがった。
しかし海の東のほうは、心なしかすでに白んでいた。
新治の返答は即座であった。
彼は急いでいたので、おそすぎる返事が少女の心を傷つける事態から免かれた。
「なあに、美しいがな」と彼は片手を艫にかけ、片足ははや躍動して、舟に跳び移ろうとしながら云った。
「美しいがな!」
新治がお世辞を云えない男だということは誰しも知っている。
ただ彼は急場の質問に、急場の適切な返事で答えたのである。
舟がうごきだした。
彼は遠ざかる舟から快活に手を振った。
そうして岸には幸福な少女が残った。
ー 『潮騒』 三島由紀夫 ー