Nicotto Town


ジュンチャン


ジュンチャンと世界を巡る 第70回はペルー


 ペルーは南アメリカ西部に位置する共和制国家で首都はリマ、北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面しています。

 紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地で、その後スペインに征服された植民地時代にペルー副王領の中心地となり、独立後は大統領制の共和国となっています。

 現在のペルーに相当する地域は先コロンブス期のアメリカ大陸で最も高度な文明が発達した地域で、15世紀にそれらの諸文化を綜合する存在として現れたインカ帝国(タワンティン・スウユ)は当時の地球上最大級の国家として繁栄しました。

 ペルーの国土は砂漠が広がる沿岸部のコスタ(国土の約12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(国土の約28%)、アマゾン川流域のセルバ(国土の約60%)の三つの地形に分けられます。

 このように3つに分けられる地形に加え、さらにコスタとシエラでは北部、中部、南部の違いがあり、それも大きなペルーの地域性の違いとなっている。気候としてはペルーは基本的には熱帯であるものの、標高の差や南北の差により各地域で大きな違いがある。

 コスタは太平洋から東に向けて標高500mまでの地点を指し、この幅50kmから150km程の狭い地域にペルー国民の半数以上が居住しています。

 砂漠であるものの、フンボルト海流の影響で緯度の割には気温は一年を通して過ごしやすく、最も暑い2月の平均気温が22度、最も寒い8月の平均気温も14度であり、灌漑を行えば通年で農耕が可能な土地です。

 ただし人が住めるのは、古代からずっと砂漠の間を通る川の流域や、湧き水で出来たオアシスの周囲のみであり、前インカ期からこうした地域に古代文明が栄えていました。

 シエラはコスタの終わるアンデス山脈の西斜面の標高500m以上の地域から、東斜面の標高1,500m程までの地域を指し、その標高によってシエラ内でも幾つもの地域に細分化されています。 

 標高2,000m以下の暑い地域はユンガといい、この地域ではコーヒー、果物などの亜熱帯作物が育ち、標高2,500mから3,500mまでの温暖な地域はケチュアといい、インカ帝国の中心だったクスコもこの範囲内にあり、この地域ではジャガイモが育ちます。

 標高3,500mから4,100mの冷たく涼しい地域をスニといい、リャマやアルパカの放牧に適し、4,100m以上の人間の居住には適さないぐらい寒冷な地域をプーナと呼びます。

 セルバはアンデス山脈東斜面の標高2,000m以下の地域を指し、標高2,000mから500mがセルバ・アルタとなり、豆やバナナなどの熱帯作物が育つのはこの地域です。

 標高500m以下はセルバ・バハとなり、かつてゴムや砂金のブームが起きたのはアマゾンのこの地域でした。

 ペルーは中央アンデスを起点としていくつもの古代文明が発展してきたため、それらの文明が残した文化遺産が国内中に散在しています。

 

 ここからはそれらの文化遺産の紹介です。

 まず一番目は、インカ帝国の残したマチュ・ピチュ遺跡 です。

 ここへはインカの古都クスコから列車に乗って3時間、さらにバスで30分ほど行くと遺跡にたどり着きます。

 マチュピチュ遺跡を発見したのは、アメリカのエール大学で考古学を教えていたハイラム・ビンガムです。
 旺盛な好奇心を持ったアメリカの青年は、ワイナピチュ(若い峰という意味)やマチュピチュ(年老いた峰という意味)を見上げるマンドル・パンパというウルバンバ川沿いの地に住む一人の男から、峰の近くに埋もれた遺跡があることを聞いたのです。
 彼はウルバンバ川の激流にかかる丸木橋を渡り、対岸の山岳を2時間ほどかけて登り、途中出合った農夫たちから世話してもらった少年をガイドに、「マチュピチュ」遺跡を発見しました。

 鉄道も無かった1911年のことで、ウルバンバ川沿いの断崖の上に400年もの間誰の眼にも触れられず眠り続けたインカ帝国の秘都は、こうして再び歴史の中に甦ったのです。 

 マチュピチュは、インカ帝国に代わりこの地の支配者となったスペイン人支配者が丹念につけていた土地台帳から、インカ帝国第9代パチャクチ(地震のように大改革を行なう賢いインカの意味)皇帝が15世紀の中ごろに建設したものと判明しました。

 目的はインカ帝国の創世神話の神殿を建設するためで、パチャクチは自分のために、またインカ帝国のためにこの神殿を創り、神殿はまた皇帝の夏宮も兼ねました。
 マチュピチュ遺跡の二つの峰の一つであるワイナピチュは、良く見るとピューマそっくりであり、ピューマに守られながらマチュピチュは、スペイン人が来るまで、創世神話の神殿としての役割を果たしていたのです。

 インカ帝国は、パチャクチとその息子のトパ・インカ(熟達の賢者という意味)2代で、1000倍もの領土拡大をなしとげ、北はエクアドルのキト周辺から南はチリのサンチアゴ周辺まで、広大な土地をインカ帝国の領土とし、南米一の大帝国を誕生させました。
 しかし、帝国の最盛期はトパ・インカの死とともに過ぎてしまって、落日の帝国はパチャクチ時代から100年程で、わずか200人弱のスペイン人の手によって滅ぼされたのです。
 スペイン兵が迫ることを予期したマチュピチュの住人たちは、神殿に火を放ち秘都を捨て、太陽の処女たちと神官たちは、マチュピチュと運命を共にしました。
 このインカの秘都からは173体の人骨が発見され、そのうち女性の人骨が150体だったということです。

 

 二番目は、ペルー南部に位置するティティカカ湖 です。

 この湖は標高3810mほどのアンデスの山中にある淡水湖で、湖の対岸は隣国ボリビアです。

 ティティカカ湖にはウロス島という島があり、島のひとびとが利用するトトラ という植物でつくられたボートに乗って湖を楽しむことができます。

 

 三番目はナスカの地上絵です。

 地上絵がつくられたのは、紀元前200年から紀元800年頃に栄えた、ナスカ文化 の頃だといわれています。

 ナスカ文化のカラフルな彩文土器には様々な動物が賑やかに描かれていて、地上絵にも有名な ハチドリやコンドルのほか、サル 、シャチ 、リャマ、魚などの様々な動物が描かれています。

 地上絵は、表面の石などを取り除いて下にあらわれた土層を利用して描かれたといわれていますが詳しいことは分かっていませんし、あまりにも巨大なため、地上から絵の全貌を知ることはほとんど不可能です。

 この他、クスコ、リマ、アレキパ、マラス塩田、モライ遺跡、ワラス、チャビン遺跡など見どころ満載の国で、ここには何時まで居ても飽きません。

 次回も普通に南米の国々を旅しますが、気楽に遊びに来てください。

 

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2021/10/02 07:55
遺跡の入り口にポツンと一軒だけあるホテル(当時の名前はマチュピチュ・ルイナス)
に泊まるツアーに参加したので、マチュピチュには、ほぼ一日滞在したのです。
それで、日の出を拝むこともできました。
マチュピチュで思ったのは、たとえ遺跡がなかったとしても、とても気分が良い場所だということ。
そして、日本の山と森を思い出したのですよ。日本もいいところ♬
ナスカの地上絵もなかなかでした!

南米に行けるといいですね。アマゾン川で釣りしてきてね~(*^^*)
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2021/10/02 07:27
さらさんへ
こんなことを書いてますが、実は釣り師は1回も南米に行ったことがありません。
釣り師にとっては南米のアマゾンやアンデスは憧れの聖地ですので、行ったことがなくても
つい力が入ります!(^^)!
いつかクスコやナスカを徘徊し、マチュピチュで日の出を拝んでみたいですが、いつになるやら・・・・・



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