お母さん
- カテゴリ:家庭
- 2021/09/11 13:48:02
お母さんなんだ。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
亜夜の動揺をよそに、その存在は明るく笑っていることに気付いた。
やれやれ、今頃気付いたの。
やあねえ、亜夜ちゃんたら。
そんな声が聞こえたような気がした——いや、心に浮かんだというほうが近い。
亜夜は自分にあきれた。
なぜ気付かなかったのだろう——そうだ、誰よりも親しく、懐かしく、温かく見守っている存在。
いつもそばにいてくれた——、あたしに音楽のすべてを与えてくれた——、突然いなくなってしまったお母さん。
いや、いなくなったわけではない——やはりいつもそばにいたのだ。
あたしが、振り向きさえすればそこに。
ごめんなさい、お母さん。
亜夜は、頬に温かいものが伝うのを感じた。
一瞬の間。
何か激しいものが身体の底から込み上げてくる。
亜夜は両手の指をいっぱいに広げて、カデンツァの最初の和音を鳴らした。
ー 『蜜蜂と遠雷』 恩田陸 ー