Nicotto Town


安寿の仮初めブログ


『カルメン』を見てきました。



オリンピックが無観客になったので、
劇場も閉鎖になっちゃうのかなと心配していたのですが、
今回の緊急事態宣言において劇場は、
十分な感染予防対策を行えば、開催してもいいようなので、
緊急事態宣言発令以前に買っておいたオペラ『カルメン』を、
新国立劇場で見てきました。

新制作ということで期待していたのですが、
うーん、このような演出意図で『カルメン』を上演することに、
どういう意味があるのかなあ。

この公演で、カルメンは、
現代のロック・ミュージシャンという設定であり、
カルメンの登場と共に彼女が歌う「ハバネラ」は、
彼女のロックコンサートという趣きです。

「ハバネラ」という曲は、
「恋は、軽やかに飛び回る自由な小鳥」と歌いながら、
その歌に聞き入る街の人々を魅了し、
生真面目なホセを誘惑していく歌なのですが、
ロック・コンサートのような設定にしてしまうと、
軽やかな小鳥が無邪気に奏でる気まぐれな恋といったニュアンスは無くなってしまい、
老いたマドンナやレディー・ガガが、
アンダーグラウンドなステージで魔女の集会を執り行っているかのようです。
曲の最後に「Death!」と叫びそう。
ヘビメタです。

カルメンが魅了し、翻弄していくホセは、
そのロック・コンサートを警備している警察の刑事という設定。
カルメンによって身を持ち崩したホセは、
原作では密輸の盗賊団に仲間入りするのですが、
この演出では、ドラッグの売人一味に加わるのです。

そのホセを、真っ当な生活へと引き戻そうとするミカエラは、
大都市の生活によって、かつての純真な心を失ってしまった恋人を親元に連れ帰ろうとする、
田舎から出てきた、ぱっと見冴えない許嫁のお姉ちゃん。
まるで『木綿のハンカチーフ』。

移動カメラを使ってコンサートの臨場感を出したり、
ペンライトやスマホ画面の明かりを使って、
カルメンの歌声に身を委ねる聴衆の姿を描き出したり。
そういう細かな仕掛けは面白いし、綺麗ですし、
ラストでホセがカルメンを殺害した時、
鉄骨で組まれたコンサート会場の天井が降りてくるのですが、
それはそのまま監獄の檻の中に、
ホセが閉じ込められていくことを暗示していて
象徴的でした。

ですが、このような現代的な翻案を行うことで、
『カルメン』という作品に、
何か新しい視点が持ち込まれたか、
新しい解釈が生み出されたかと言えば、
私の答えは、ノーです。
ちょっと現代風な『カルメン』にしてみましたというだけです。


『カルメン』という作品は、
カルメンをどのような女性として描くか、
カルメンに体現される自由をどのようなものとして描くか、
ここにかかっているように思います。

男を転落させていく「悪女」、
一時の恋や感情や身を委ねて人生を棒に振る「あばずれ」
という描き方も可能ですが、
『カルメン』という作品は、
それだけには収まらない解釈の可能性があるように思うのです。

『カルメン』には、
「私を愛しているなら、私を遠くに置いて」と歌う一節があります。
「私を近くに繋ぎ止めて、独占しようとしてはダメ」ということですが、
この言葉には、カルメンという人の本質を、
もっと言えば、恋という心象の本質を言い当てているところがあります。

恋とは、誰かに惹かれ、焦がれて、
その相手を、例えば結婚という形で独占することによって、成就されるもの…。

そうなのでしょうか。

むしろ恋とは、「軽やかに飛び回る自由な小鳥」。
その点から言えば、恋は成就しません。
恋は、その軽やかな翼を失って、
籠の中のカナリアになった時、死んでしまうのです。

だからまた、カルメンは、次から次へと恋する相手を変えていきますし、
そのカルメンを独占しようとするホセによって殺されていくことになります。

ですが、たとえカルメンを殺したとしても、
ホセにカルメンを独占することはできません。
殺したことによって、ホセは、永遠にカルメンを失ってしまうのです。
ですから、ホセの絶望は、
身を持ち崩して、ついに人殺しまで転落してしまった自分自身に対してではなく、
殺してしまったことで、
自分はカルメンを永遠に失ってしまったことに気がついて、愕然としたからです。

別の言い方をすれば、殺されることで、
カルメンは、永遠の自由を手に入れたとも言えます。
自らを独占し、支配しようとする輩たちから完全に逃れて、
カルメンは、永遠に「軽やかに飛び回る自由な小鳥」、
恋に生きる気まぐれなキューピッドに生まれ変わったと言えます。


ある意味、このシチュエーションは、
相手をストーカーし、監禁し、DVすることが、
つまり、相手の身も心も完全に支配することが愛なんだ、
愛の成就なんだと考えている人たちに対する、
痛烈な異議申し立てと言えるでしょう。

  私を自由にすること、
  私を遠くにおいて、私の思うままに生きさせること、
  私を自由に羽ばたかせること、それこそが私への愛。
  恋や愛とは、相手を自由にすること。
  恋や愛は、自由そのもの。
  所有に対する無所有。

  だから、ホセよ、愚かな恋人たちよ。
  私を愛そうとするなら、あなたも自由になれ。
  私に拘泥しない自由な人間となって、
  その上で私を愛せ。

カルメンが、ホセから闘牛士エスカミーリョに乗り換えていくのも、
エスカミーリョの方が自由な人間だからでしょう。
カルメンに拘泥し続けるホセよりも、
エスカミーリョの方が遙かに誇り高く、遙かに堂々としていて、
その点で自由な人間としてカルメンを愛そうとしているからです。

それに対してホセは、
カルメンから見捨てられたら、もう何も残っていません。
抜け殻でしかない、哀れな男に過ぎません。

ですから、その内面において無内容なホセは、
カルメンのような自由など、願ってはいけないのです。
田舎に帰って、ミカエラと共に、土地と先祖に縛り付けられながら、
ささやかな幸せを享受していればいいのです。

自由は、カルメンのように誇り高き人々だけが
享受しうるものなのです。

  生きようと死のうと、私は私のままでいる。

そう言い切れる人の肩に、
「軽やかに飛び回る自由な小鳥」は舞い降りるのです。

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2021/07/25 12:46
>うとうとさん

このコメントを書くために、
カルメンの歌詞の対訳版に目を通してみたのですが、
実際の歌詞は、

「私を自由にすること…」うんぬんとは、語っていません。

ですから、これはあくまでも安寿のカルメン解釈と言った方がいいでしょう。

ですが、この解釈の方が、
遙かに現代的、かつ時代を超えて普遍的なのではないかと
安寿は思っています。
アバター
2021/07/21 14:57
「私を自由にすること、
 私を遠くにおいて、私の思うままに生きさせること、
 私を自由に羽ばたかせること、それこそが私への愛。
 恋や愛とは、相手を自由にすること。」こんな愛が理想です^^

「軽やかに飛び回る自由な小鳥」が飛び去って行かないように気をつけます^^



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