Nicotto Town



母の日に寄せて



母の日に贈るのは白いカーネーション。
最近はもう贈りませんけれど。

8年前のちょうどこのくらいの季節、四月の終わり頃でしたか、
母が旅立ちました。

その少し前に肺炎をこじらせて入院したと姉から連絡があり
急いで郷里に戻りお見舞いに行きました。

私は大学入学と共に親元を離れて
それ以来ずっと距離をとっていましたが
仕事が順調になってから
2年に一度は両親と姉家族を当時住んでいた福岡に呼んでもてなし、
2年に一度は実家に帰省することにしていました。

二十年くらい前に、母は突然難病を患って、
身体を動かすことも出来なくなり、一時は命の危険もと言われたものの
容体は持ち直して、リハビリのために散歩をしたり、運転をしたり、
あげくに福祉士の資格をとって
近くの施設で働いたり、闘病中とは思えないくらい
元気に振舞っていました。

肺炎から容体が良くならなかったのは
難病で長期に服用しているお薬の影響で
抗生物質が効かず、恐らく回復は見込めないと医者の説明がありました。

延命措置について念のためご家族で話し合ってください、と言われ
父に私と姉が呼ばれました。

姉は「どうやっても良いから生きていてほしい」といい
私は「本人が辛い状態での延命はしないほうがいい」といい
父は「お母さんも多分延命措置は望まないだろう」といい
延命措置はしない、という意向を医師に伝えました。
姉はずっと泣いていましたが、納得してくれていたと思います。

それから少し経った日に、母が逝ったと父から連絡がありました。

父の泣く声を聞いたのは、祖父が亡くなった時以来2度目でした。

お葬式でも事あるごとに涙をこらえる姉の姿とは逆に
私はなんとなく静かに目の前の光景を眺めていました。

早すぎる、と皆が口々に言っていましたが、
父は母らしい一生だったと、早すぎることはないと言っていました。
私もそんなふうに感じていました。

確かに年齢的には早かったかもしれませんが
難病を抱えつつも元気に立ち振る舞い、
心配したりおせっかいをしたり、笑ったり怒ったりしていた姿。

最期に会った時は、低酸素血症のためかぼんやりとしていて、
傍に付き添いながら、母の命が身体から漏れ出しているような
静かに魂が周りに溶け出しているような
そんな印象を感じ取りました。

その後そのまま眠るようにして逝ったそうです。


棺に入って綺麗にお化粧をしてもらった母に
生前にあげると約束していた小さな真珠のネックレスを着けてあげました。
もうここに母は居ないんだな、と感じながら。

「悲しい」という感覚はあまりありませんでした。
空虚なもの、喪失感のようなものも特にありませんでした。
亡くなった直後だから、と言われましたが
何年も経った今でも同じです。

度々夢に変わらぬ姿で出て来ます。
母に教わった料理や家事のあれこれも身についていて
その作業毎に母を思います。

母はそうして私の中に生きているんだなと感じています。



アバター
2021/05/09 22:04
JUNさん>

琴線が振えます。温かいなぁ。

コメントどうもありがとうございます。
アバター
2021/05/09 19:50
そうして貴女の中に生きています。
そのお言葉がすべてよ(^^)

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