丸木俊さんのこと
- カテゴリ:日記
- 2020/08/30 17:12:16
一等通訳官の子弟の家庭教師としてモスクワに滞在
その後もモスクワ公使の子弟の家庭教師として再びモスクワ赴任
の経験を持つ
同じく画家の丸木位里と結婚するにあたっては
結婚していた先妻に「悪い事をしました」と挨拶に行き
「(夫を)差し上げます」と言われている その後も家族のように
付き合いがあるという
有名なのは「原爆の図」
俊さんがデッサンした絵が生々しいと言って
夫の位里さんが墨を流す 消されたと思って俊さんがまた描く
位里さんが墨を流す その上からまた俊さんが描く
重ねていくうちに墨色の濃淡からデッサンが浮かび上がる
そうして出来上がったそうだ
丸木俊さん(1912~2000)の生の声で
「力を持った、権力を持った者は傷つかずに民衆が傷ついていくことを
絵に描く。画家だから。どんなに残酷、残忍な情景であっても
やられる側の人の姿は美しく描きたい。」と聴いた
「みなまた海のこえ」を読んだ(観た)
岩の下の井川(湧き水)に鯛やお餅が供えられ、もんぺ姿の
お母さんたちが桶で水を運んでいる 木では鳥が雛を育て
蝶が飛び 河童が談笑し 綺麗な貝が湧き水の傍をタイルのように
彩っている 山には木に果物が生り 畑には野菜が 地面には花が
歌っている そんなチッソ会社がやってくる前の絵が好きだ
東南アジアの国々で今もみられる風景のように感じた
稲作の国らしく昔に戻ろうよと言いたい
チッソ会社が不知火海(しらぬいかい)、みなまた湾に流した毒は
有機水銀、セレン、タリウム、マンガンなど非常に多い
まだまだ知らないことが多すぎる
海の神に畏敬の念を抱いてきた人々の悔しさ、悲しみは
計り知れない
俊さんは言っていた
美術学校時代モデルに支払うお金節約の為に交代でヌードになって
デッサンをした 1000枚描けばわかってくる 先生になどついて
いたらダメだ、と
バイオリンのレッスンでも似たことを言われたことがある
30年続ければ楽器が出してほしい音がわかってくる、と
人間が間違いを認め 楽をすることより儲けることより
自然を敬う行為を続けたらこれまでの悪さを許してはくれるだろうか
宇佐美承・作の「原爆の図物語」を先に読み終わったところです
唐子村で丸木夫妻がどのように村の人に受け入れてもらっていったかが書かれています
初めて逢った時高校生だった子はサラリーマンになり、中学生だった子は
大学生になり、それぞれの得意分野で美術館拡張や茶室を移転するのを手伝うことになります
位里先生、俊先生と呼ばれてはいるが、少しも偉ぶるところがなく人間対人間の
接し方が応援してくれる人の輪を広げているのです
原爆で死んだのは日本人だけでなく、日本に連れてこられて工場で働いていた朝鮮人も
捕虜のアメリカ人もいて、原爆投下後は生きていたのに朝鮮人だからと放置され
皮膚からウジがわき骨がみえてカラスが目を突いていたとか、日本兵が棒切れを持って
通行人にアメリカ兵を叩かせて死なせたとかそういう事実も何人もの証言をもとに
画にしているんです 中国でふざけ半分に殺人をしたり乱暴をしたり、沖縄戦で
日本兵が日本のお百姓さんを殺したり自分たちで死ねって言ったりしたことも知りました
戦争になったら悪い事でも止められないです だから絶対戦争にならないように
国の指導者はちゃんと選ばないといけないです
平和も和やかな自然も、守るのは難しい。戦争を国民が望み、原爆が落とされる結果になった。チッソの工場は、他の場所に立地する予定だったのを、水俣村が破格の条件を提示して、誘致をした。地方の商店街やコミュニティーも国民が望み、規制緩和で崩壊した。
幸いに、効率や経済成長一辺倒の世代は、間もなくいなくなる。これからは、あずさちゃんの世代が、未来を作っていくことになる。頑張れ、あずさ。新しい、価値観を作っていこう。