地震革命論
- カテゴリ:日記
- 2020/04/15 15:12:50
地震革命論、といっても聞きなれない言葉だと思いますが、社会変革の方法論(方法なのか?)として実際に語られていたものです。要は巨大地震で現状の生活基盤が物理的にも精神的にも政治的にも瓦解してしまった後に、そのインパクトを背景にした新しい価値観で、新世界を築き直す、というものです。
東日本大震災があった時、そんな話を思い出しました。そして、地震革命かはどうかはともかく、「震災で日本は大きく変わった」という言説が一般の市井の人の間でも、知識人(この単語、ものすごい久しぶりに思い出したので使いました。90年代くらいまでで有効期限の切れたことばの代表格なような気がする…)の間でも囁かれました。
そうでしょうか。
その実感は私にはありません。
確かに、計画停電や物資の配送遅延など物理的な混乱はしばらく続きましたし、それらのことも背景に含めた心境の変化も、それぞれにあっただろうと思います。人なんていつ死ぬか分からない、そういう良い意味での厭世観も生まれ、意識の変わった人もいたことでしょう。
地震が起きて間もなく、私は石巻と女川に行きましたが、写真でしか見たことのない空襲で全滅した都市のような、見渡す限りに広がる瓦礫の荒野に衝撃を受けとこともありました。それらの記憶を、確かに思い出すことは出来ます。しかし、再びその感触を思い出すことは厳しいとも感じます。
ここのブログにも書きましたが、計画停電が行われていた頃、街の明かりはずいぶんと控えめになっていました。しかし、少し薄暗くなった地下鉄のホームで電車を待ちながら、けっこう多くのひとがこんな感想をつぶやいていた気がします。「別に、これで良くね?」。
電力不足からの計画停電でしたが、皮肉にも「そもそも、そんなに電力は必要なのか?」という課題に、決して少なくない人たちが気づくきっかけでもありました。この極限まで電気依存が進んだ社会での、かなりインパクトの大きな気づきであったのかと思います。私自身、そういう疑問は前からありはしたものの、現実に灯りの落ちた世界には大きな印象が残りました。薄暗い地下鉄のホームでたたずみながら「でもそうだよな、アメリカでもフランスでモイギリスでも、どこに行っても地下鉄ってこんな程度の明るさだったな。明るすぎなんだよな、日本って」。そんなことを考えていた記憶があります。
ですが、いつの間にか街に灯りは元に戻り、電車の明かりも元に戻りました。私もいつから今の状態に戻っていったのか、まったく記憶も意識もありません。
今回のコロナ騒動に際して、ビジネスの世界ではポストコロナのテーマが賑やかです。仕事しながら子供とちょと遊んで、料理して、その分は少し夜に仕事してみたり、はからずも裁量労働の様なやり方になってしまっているけれど、実はそれで結構仕事は成立するし、生活は穏やかで楽しくなってるような気がするけど、それってまた元に戻すんですか?とか。そんなこんなでテレワークで仕事をしてみると、働いていた人と働いていなかった人の選別が明確になってしまうことに対する対応ってどうすんの?とか。
わたしなんかは、もともと会社で仕事したり家で仕事したり喫茶店で仕事したり公園で仕事したり、明け方に仕事したり夜中に仕事したり昼までグーグー寝てから仕事始めたり、でも家族の3食の食事とか家事も大概やってて、というふざけた会社員だったので、今回の騒動でもなんら違和感なく仕事をしてはいるのですが、先述の様な話がテーマとして挙がってくることはとても良く分かります。じゃあ日本の会社員の働き方はコロナ終息後に大きく変わっていくのかと考えると、半々かなと思っています。
コロナ終息後に、テレワークを原則的には終了して、元の勤務形態に戻していく会社は、相当数あるはずです。日本のテレワーク移行の動きがとても鈍かったことの裏返しで、終わればすぐ戻る、ということです。人的にも、会社に行きたくて仕方がない人というのも相当数いるはずで、そういう人は状況が戻ればすぐに会社に足を運び始めるのだろうと思います。一方で、テレワークの枠組みを残していく会社も人もいると思います。問題は、今回の事で就業の仕方を考え直すことが出来なかった会社の、しかし考え方が変わってしまった社員はどうするのか、あるいはその逆で、会社は変わったけど中の人が変わらなかった場合はどうするのか。
東日本大震災の電気不足は確かに困りましたが、電気の使用タイミングをシフトする程度でどうにかなる話でした。「そもそも、そんなに電力は必要なのか?」という気づきもマインドの問題として吸収されてしまうことで、実際問題としては電気はたくさんあった方が便利なので、戻ったら戻ったで誰が文句を言うということでもなかったのかと思います。
しかし、コロナで振り回されたことは、生活環境や生活概念を、マインドの問題ではなく現実的な生活実態から変えてしまうケースをたくさん生んでしまうことは、まあ私が言うまでもなく明らかです。そういう意味でポストコロナのビジネスとして考えると、働き方そのものもあるのですが、おそらくコロナ騒動が露呈させてしまった労使のズレを吸収するような転職市場が大きく動くんじゃないかという気もしています。
それが良いことかどうかと言うと、わたしはとても良いことだと思っています。今までであれば「仕事しながら子供とちょと遊んで、料理して、その分は少し夜遅くに仕事してみたり」という仕事の仕方は、明らかに非常識な間違えた働き方でした。なぜなら、「そんなことは会社員としてはしてはいけない」という暗黙の前提があったからですが、会社公認でその非常識をやってみたら、全然いけた、むしろ良かったという事実が見えてしまった。そこに再び蓋をするのであれば、今回は蓋をしきれない人たちが出てくることは明らかです。たぶん、そういう人達が、少しづつ世界を変えていくのだろうと思います。状況が安定している中で、蓋からはみ出す人は相手にされません。状況が不安定過ぎるところでは、皆が蓋からはみ出してしまい、かつ正しくないはみ出し方も頻出し、いずれにせよもともとはみ出す指向性のあった人は埋もれてしまいます。適度に不安定な状態ではみ出すのが、タイミングとしては重要なのかもしれません。
以前もここで書いたような気もしますが(もう別のブログで書いたのか、ここで書いたのか、どこにも出していない自分のたくさんのメモの中に埋もれているのかわからないのですが)、わたしは日本はまだ戦後だと思っています。「もはや戦後ではない」のは、今もってして経済状況だけだと思っています。じゃあいつ戦後が終わるのかというと、たぶんあと15~20年後くらいだと考えています。それは分かりやすい区切りでいうと、ゆとり世代くらいの人たちが、世の中の中枢になってくる時期です。そこまで行って、たぶん戦後は終わります。その流れが仮にあるとしたら、今回のコロナ騒動は一つのターニングポイントかもな、と薄っすら思っています。