きらきら、世田谷ボロ市 その1
- カテゴリ:タウン
- 2020/01/31 17:51:07
仮想タウンでキラキラを集めました。
2020/01/31
集めた場所 | 個数 |
---|---|
ペット海浜公園 | 3 |
自然広場 | 5 |
きらきら、ペット海浜、自然、三択コーヒー。
しばらくここをあけてしまいました。
その間に出かけたことなど、順を追って。
一月十五日の水曜日に世田谷ボロ市に出かけてきた。年が明けてからほぼ最初のちょっとしたお出かけ。ボロ市開催の五日ほど前に、その近く(世田谷区上町周辺)を、ある編集会議に出席するため通ったことがあった。交通規制の案内、ボロ市のポスターなどがあちこちにあるが、あたりはもちろん、平日の昼の静けさだ。開催されている非日常とそうでない日常。すこしの違和が心地よい。
毎年十二月十五日・十六日と一月十五日・十六日に開催される古物市の世田谷ボロ市は、一五七八年(天正六年)の楽市が起源の由緒ある催しで、世田谷代官屋敷(敷地内にボロ市の資料もある区立郷土資料館がある)を中心としたボロ市通りに、例年七〇〇店以上の出店、一日二〇万以上の人出がある。売っている物はいろいろだ、骨董、植木、食品、衣類、貴金属、古本……。
わたしはボロ市のことをいつ知ったのだろうか。子どもの頃、世田谷に住んでいたから、あるいはそのときからなんとなく存在を知っていたような気がする。実際に出かけるようになったのは、ここ十年ぐらいで、また世田谷に戻ってくるかたちで住むようになってからだが。
「市」ということばに惹かれる。勝手な想像だが、十五日というのは、満月の明るい時に開かれていたということなのかしらと思ってしまう。実際のボロ市は最初は毎月一と六のつく日に開かれる六斎市だったらしいが。その後、十二月十五日に開かれる歳の市として長く続き、明治になり、新暦が使われるようになってのち、一月十五日も開かれるようになり、さらに十六日にも、という段階を経て、現在のように年四日間開かれるようになったとか。
十二月はバイトが繁忙期で少し疲れていたので今年は一月に出かけた。最近は土曜日などに結構当たっていて、混んでいたが、今回は平日だったので少しは空いているかしらと。天気は朝のうちは雨だった。
編集会議で通ったときは自転車だったが、ボロ市の時はいつもバスで出かける。混雑がすごすぎて自転車を停める場所がないのだ。
まだかすかに雨が降っていた。会場に向かうバスの中からかつて祖母が住んでいたマンションをまた見る。もう……何十年も前になるというのに、まだマンションが同じ名前で同じ建物ととしてそこにあることにいつも驚いてしまう。当時から一階に入っていた文房具店も健在だ。小学生のわたしがその文房具店で筆記具かなにかを買った記憶もある。
もっとも、そのマンションの名前は、長らく忘れていたのだった。世田谷区内に越してきて、祖母のところに行くのと同じルートのバスに乗る機会が生じて、その時に思い出したのだ。最寄りのバス停の名前、となりのバス停の名前をなつかしく感じて、あたりを見回したとき、文房具店とその上のマンションが、マンションの名前が目に飛び込んできた。それで埋もれていた記憶の中から、名前が水底から出るようにしてあらわれ、明るくわたしを照らしたのだった。
マンションの名前が浮かび上がり、合致したときのきらきらとした印象は、いまでもどこか宝物めいて、やさしい。
よくは覚えていないのだが、子どもの頃、わたしたち家族が世田谷に住んでいた頃は、祖母は東中野に住んでいた。わたしが世田谷を離れてのち、祖母は伯母たちとそこに住むようになったのだと思う。
話は脱線ばかりするが、祖母が住んでいたマンションの近くに、ボウリング場、ゴルフ、バッティングセンターなどの総合施設があった。今もあるが、住宅展示施設、スーパーと飲食店が目立っている。子どもの頃、ボウリングをしたわけではないが、その隅で子ども用の乗り物などに乗って遊んだ記憶がある。
そこにまた別のある時に行った。スーパーで買い物をしただけだが。こんな時、いつも浮かび上がってくる歌がある。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(西行法師)。
建物自体はもしかして、当時と同じなのかもしれない。外壁などがそこそこ古かったから。その壁が目にしみた。そのスーパーで晩ご飯の食材を買った。日常と過去の日常がこうして重なることがあるのだ。
(続きます)