きらきら、命なりけり、小夜の横浜 その1
- カテゴリ:タウン
- 2019/12/24 16:33:32
仮想タウンでキラキラを集めました。
2019/12/24
集めた場所 | 個数 |
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ビーチ広場1 | 6 |
おしゃべり広場 | 6 |
ビーチ、おしゃべり、三択は、レカレー。
ビーチとおしゃべりは、ともに海辺だなあ。
このところ、博物館とか美術館とか、そういったものに出かけていないなあと、ふとインターネッドなどで探してみたら、「令和元年度 かながわの遺跡展 縄文と弥生」というのが、神奈川県立歴史博物館(二〇一九年十一月二七日─十二月二十二日)と綾瀬市役所(二〇二〇年一月九日─一月二十六日)で開催とのことを知った。
神奈川県立歴史博物館の最寄り駅は馬車道。知ったのがもうこの場所での開催終了間近だったので、急いで出かけてきた。
バイトでけっこう疲れていた。でも出かけなければいけないと思った。言葉たちが、そうしないと、わたしのまわりにやってこないから。言葉たちと言葉を交わすこと、言葉たちのなかに身を置くこと。それは厳密には言葉ではない、言葉を通じて彼らと出会うこと、そのなかにいるには、なにかそうした場所が必要だった。
出かけると決めたその日は、平日で、冬のなかでは暖かい晴れた日だった。今日しかないだろう。絶好の博物館日和だ。どこかで、もう今年最後の博物館、展覧会なのだろうなという思いがあった。
馬車道というと、なんとなく遠く感じる。だが、家から自転車で数キロで二子玉川駅に行けるので、そちらからなら横浜界隈は自分でもいまだに慣れないのだが、びっくりするほど近い。
横浜を遠く感じるのは、小学生の頃から大人になるまで、地理的に実際に遠い埼玉に住んでいたことがあり、その印象もある。それと、父が離婚してから後、わたしと父と二人で、横浜の中華街を散策した記憶とか、そうしたことが影響しているだろう。あるいはちょうど中学生の時に名画座だったと思うが(テレビだったかも)、映画『チャイナタウン』を観た記憶がどこかに優しい影を落としているのかもしれない。
ロマン・ポランスキー監督、ジャック・ニコルソンとフェイ・ダナウェイ、一九七四年。映画はよく覚えていないが、見終わったときの感覚が、後をひいて、心地よかった。べつに横浜の映画ではないが、チャイナタウンつながりで、とにかく、どうにも横浜というと、心が騒いでしまうのだった。
で、馬車道だ。二子玉川から、東急線、みなとみらい線などでゆく。地下道から最寄り出入り口を昇って外に出ると、、突然、神奈川県立歴史博物館がそびえているのに出くわす。
ドイツの近代洋風建築、竣工は一九〇四年(明治三七年)、もとは横浜正金銀行本店だったという。一九六七年(昭和四二年)、神奈川県立歴史博物館として開館された。レンガ造りの建物が古さを帯びて建っているのが、街になじんでいる。他にも古いレンガ造りの建物、ビルヂングと呼びたい建造物が垣間見られたから。
いい加減な感想だが、神戸みたいだなあと思った。神戸に旅行で出かけたことが何回かある。その時に、明治期の建物たちが港付近に残っているのをみて、維新的なもの、洋風への憧れ、富国強兵などもあっただろうが、そんな息吹を感じたことがあったのだが、それと似た面持ちを、時を経て、ここ横浜に感じたのだ。
もっとも神奈川県立歴史博物館がこうした建物だったことは、予備知識がなかったのでうれしい驚きだった。
さて、展覧会。HPやチラシから。
「 縄文時代から弥生時代への移り変わりは、狩猟採集社会から稲作農耕社会へと変化を遂げる転機であり、歴史上の大きなターニングポイントであったといえます。
神奈川県域をはじめとした関東地方や中部高地では、縄文時代中期に極大化した遺跡数は、後期を迎えると減少に転じ、後期後葉以降から晩期にかけて激減します。
その背景として、世界的な気候の寒冷化により植生が変化したことで食料資源が枯渇し、狩猟採集社会が行き詰まり、その窮状を打破すべく稲作を取り入れることで、歴史的な転換がはかられたとされてきました。
しかし近年、停滞あるいは衰退と評価されてきた縄文時代後・晩期の社会観を見直す動きが出てきています。後・晩期社会が寒冷化を積極的に利用し、植物質食料の多角化を図り、気候の変動に適応したことがわかってきたためです。
このような視点から、変動する自然環境に適応した人々が縄文時代から弥生時代へと移り変わる時期をどのように暮らしたのかを探ることにします。」
(その2へ続きます)
いつも読んでくださって、ありがとうございます。