トロッコ問題
- カテゴリ:日記
- 2019/10/07 16:54:30
なんで先日、うんこ味のカレーとカレー味のうんこ問題などを、わざわざ日記に書いたのかというと、例の小学校の倫理の時間にトロッコ問題が出されていたという件について話してみようと思った布石でした(いるのか?そんな伏線w)。。。
まず、トロッコ問題は実は最後の問いの掛け方でテーマが大きく異なってきます。問いの最後を「(何もせずに5人を見殺しにするか、ポイントを動かし1人を犠牲にするか)どうすべきか?」という問いかけにすると、当人の罪悪感に対する判断の問題となります。しかし「(5人を助けるために1を犠牲にすることは)道義的、倫理的に許されるか」問うと、当人の罪悪感というよりは倫理観の問題となり、微妙にテーマが変わってくる、ということがあります。
まず後者がテーマであるとしたら、直接的な答えは「正解は無い」にしかならないです。私は、倫理や道徳というのは、煎じ詰めれば価値観であって、それが社会的なものなのであれば、社会によって共有される価値観ということになると思っています。そして価値観とは決して合理的、数理的な正しさを伴うのもではなく、気分や雰囲気といった直感的な感情論が幅を利かせるものです。
ちょっと調べると出てくると思いますが、道徳性に対して人はこういう判断をしがちだ、というある実験結果がありますます(この実験を行ったハウザーというアメリカの学者は、割と最近になって過去の論文の不正が発覚した人なので、まあ何というかですが…)。
行動の原理:行動による害(例えば誰かが死ぬような出来事)は行動しなかったことによる危害よりも、非道徳的だと判断される
意図の原理:意図を持ってとった行動は、意図を持たずにとった行動よりも非道徳的だと判断される
接触の原理:肉体的な接触を伴う危害は、肉体的な接触のない危害よりも非道徳的だと判断される
要するに、面倒な出来事は見過ごして見なかったことにして関わり合いになりたくない、ということですw
学問的にはどうだか知りませんが、一般的な世の中としての倫理や道徳というのは、良いも悪いもないくこういうものなのです。だから「正解は無い」のであり、あるのは「自分の心理的にどっちの方が自分の逃げ道があるか」ということです。なので、それをイチイチ問うても仕方がないかな、と。
では、問いを前者の「どうすべきか?」に引き寄せるとどうか。
これも正解はないと言えばないのですが、問いの後者が倫理や道徳といった直感的な感情論だというのであれば、前者は合理性でアプローチしないとなりません。なので答えは明白です。ポイントのハンドルを動かし、5人を助け1人に死んでもらう、これしかありません。
そもそも、気分の問題としては後味が悪いかもしれませんが、ポイントを動かさずに何もしないとしても、結局は「何もしない」という積極的な判断に基づき、「なにもしない」という具体的な行動を起こしている以上は、「何もしなかった」わけでは全くない。ポイントを動かしても動かさなくても、おなじことなのです。であれば、一人を見殺しにするしかないでしょう。もちろん現実的にそんな場面に遭遇してしまった場合には、どっちの方に好きな人がいるかとか、どっちの方が生きていてもらった方が世の中的にとか会社的に価値があるかとか、そういうバイアスをかけて判断すると思いますけどね。
こんな場面には遭遇しない、と多くの人は思うかもしれませんが、火災の家から誰かを救おうとした時だとか、意外と似たような状況になる場面はあるものだと思います。
登山なんかだと、複数のパートナー同士が滑落して、皆がつながったザイルを介して宙づりになってしまい、誰かのザイルを切って落ちてもらわないと、全員死んでしまう、というような場面は、本気のアルパインクライミングなんかでは普通にあり得る状況です。
私の会社の仕事に近しいところで言えば、車の自動運転のシステム設計で非常に重たい課題になってます。事故が起きそうな状態になった時、結果が良くても悪くても今までは運転手が判断をして何らかの行動を決断していたわけですが、自動運転になると、その危機回避手段を事前にシステムとしてプログラムしなければならいことになります。じゃあ2つの対象のどちらかを轢いてしまうことが確定的な状況で、何を優先し何を犠牲にするのか。それを、設計者が決めなければならないのですね。
ということで、このトロッコ問題を小学校で出したことが良いのか悪いのか、という冒頭の話に戻りますが、二つの話があるかなと思っています。
日本語には「思考する」という言葉があります。これは本当にすごい単語だなと思うのですが、分解すると「思い」「考える」ということです。という話をだいぶ昔にこの日記に書きましたが、トロッコ問題に難色を示して学校に抗議した人の中には、たぶん「思った」だけで「考える」ことはしてない人がたくさんいただろうな、という良くあるクレームの話題として帰結する話。まあ、こっちはどうでもいいです。
もう一つの話は、この話がNGだという大きな理由が、人の生き死にをテーマの中に入れてしまっていること、ということですね。どうでしょうかね。
正直なところ、私には良し悪しの判断がつかないです。具体的な例示される内容を抜きに判断すれば、物事を考えるということの一つの取り組みとしては、もちろん悪くはありません。しかし、トロッコ問題は人の生き死にを問題にしていることに真価があるので、そこをスポイルして書き換えてしまっては意味がないとも言えます。
ひとつだけ言えるとしたら、この問いを問いかける教師の語り口によって、状況は大きく変わるんじゃないかな、ということです。相手は子供ですから、例えば「ひき殺されます」と表現すれば、そのままひき殺される感覚を受け取るでしょうし、「ぶつかっちゃいます」と言えば、ああぶつかっちゃうんだと受け取るかもしれません。ぶつかるということでも、当然ぶつかった人には何らかの被害が出るわけで、問題の真意をスポイルするほどのことにはならないかな~。
何年生に出した問題か分かりませんが、意味や意図をなるべく変えずに、表現をマイルドにする方法はあっても良いようには思います。
てなところで。