きらきら、水子貝塚公園その2
- カテゴリ:タウン
- 2019/07/31 15:47:36
仮想タウンでキラキラを集めました。
2019/07/31
集めた場所 | 個数 |
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ペット海浜公園 | 5 |
神社広場 | 15 |
きらきら、ペット海浜、神社。
昨日の続きです。行田の古代蓮をみた後から。
家への帰り道、ルートを変えて、埼玉県富士見市の水子貝塚公園に寄ったのだ。古墳時代よりもさらに昔へ。古代蓮の眠っていた頃にも重なるだろうか。縄文時代としては時代は重なるだろうけれど、水子貝塚自体はもうすこし古いもの。縄文時代前期から中期にかけての遺跡で、国の史跡でもある。公園には、復元した竪穴式住居跡があり、展示館と資料館がある。展示館では貝層や、竪穴式住居跡の発掘当時を再現した展示がおこなわれ、資料館では、縄文時代を中心に、旧石器時代から平安時代までの遺物が展示されている。 わたしは小学校から高校ぐらいまで埼玉に住んでいた。この富士見市はおとなりの市。なのに、今まで行ったことがなかったし、存在も、うろおぼえに聞いたことがある程度だった。その頃は縄文時代に興味がなかったから。わたしが住んでいた市、夏などに避暑におとずれていた川岸の小高い小さな林、そこも貝塚だったということに後年、というか最近気づいた。しらずに中学生、高校生のわたしはそこで憩っていた。夏にはキツネノカミソリが咲いていたっけ。
縄文時代に興味を持つようになって、ぜひ水子貝塚公園には行ってみたいと思っていたので、行田の古代蓮の里から、帰り道をほんのすこしルートを変えることで、寄ることができるとわかって、訪れたのだった。
復元した竪穴式住居のある公園は芝生もあるので、遺跡というより、ほんとうに公園といった感じで、親子連れ、子どもたちが多く、あちらこちらでボール遊びなどをしている。遺跡という空間と日常的な憩いの場であることの均衡がとれていないようだった。あとで案内してくださったスタッフの方に聞いたのだが、竪穴式住居に、サッカーボールなどが当たることもあり、それを修復するのも大変なのだとか。
展示館に水子貝塚を紹介する上映があった。海のない埼玉だが、約六〇〇〇年から五五〇〇年ほど前の縄文時代前期中頃には、水子貝塚の周りは縄文海進で海だったという。
わたしが小学生の時にも、やはり同じようなことを学校の授業で聞いたことがある。当時わたしが住んでいたところの付近も、同じぐらいの時期には海だったから、今でも海抜が五メートルぐらいしかなく土地が低いと習った記憶があるのだった。海のない、内陸なのに海辺のような海抜の低さに、不思議な印象をもった。貝塚も近くにあるといっていたが、当時は縄文時代には興味がなかったから、ただ貝が埋まっているんだな、海だったんだなあと、そのことにだけ意識を向けていた。水辺に対する関心は子どもの頃からあったから。
子どもの頃に縄文時代などに、興味を持っていたならばと少し思う。そういえばクラスの男の子たちなどは、どこかで縄文土器のかけらなどを発掘してきていたっけ。けれども、今、縄文時代のあれこれに惹かれるようになって、遅かったかもしれないが、気づくことができて、それはそれで良かったとも思う。
今回も水子貝塚公園に来ることができて感慨深かった。ここでも貝塚には、貝や骨のほかに丁寧に埋葬された女性、狩りなどで相棒だったのかもしれない犬などの骨も発見されている。再生の場だったのかもしれないし、生と死が分断されきっていなかったからかもしれない。遺棄するという観念も稀薄だったのかもしれない。連続性を持っていた…。水子貝塚は地点貝塚(住居跡が貝塚になったもの)と竪穴式住居で、ドーナツ型に構成されている。中央は広場として、祭りや共同的な作業などで使われていたのではとのこと。復元された竪穴式住居の一つの中に、縄文人と犬がいるみたいなのだが、わたしが行ったときは、虫の駆除中だったかで入れなかったのが少しばかり残念だったが。
土器などが展示されている資料館には、水子貝塚だけでなく、富士見市の遺跡から発掘されたものたちが展示されていて、旧石器時代のやじり、縄文前期から中期ぐらいまでの土器が思ったよりも多く展示されていて、それがうれしかった。縄文時代早期の縄で文をつけたもの(まさしく縄文の名前どおり)、幾分装飾的な加曽利式の中期のもの、そして県の指定有形文化財になっている、羽沢遺跡出土の中期(約四五〇〇年前)のもの。これは愛称がムササビ土器という。口縁部のおそらく前面に動物の顔、後ろに尾っぽのようなものが施されている。ムササビと名前が付いているが、おそらく顔は猪で、尾っぽのように見えるところは、人間の眼なのではとのこと。猪と人間が向かい合っている……。なにか山梨あたりの土器と似ているなあと思ったら、キャプションに「この土器と同じ「猪」の装飾の付いた土器は、(中略)甲府盆地から相模原台地、多摩丘陵が分布の中心です。また胎土には甲府盆地の土器の特徴である金色の雲母を含んでいます。これらのことからこの土器は甲府盆地周辺からの搬入品と思われます」とあった。動物と人間が近しく向き合っている。造形的にも印象深かったが、そのことも惹かれる一因だったのだろうか。
そういえば、「水子」という地名。水子貝塚を紹介する上映や、小冊子に載っていたのだが、「コ」という音は、場所を表わし、「ミズコ」で、「水があるところ、水がわきでるところ」という意味なのだとか。このあたりは今も湧水があり、小さな川も流れており、当時はもっと水に恵まれた場所だった。近くに住んでいたのにと、このときも思った。水辺が好きで、あちこち探していたのに、知らなかったのだ。水がおおい所という地名だったのに。そして、此処、彼処、何処、この「コ」も、場所だったのだなあと、「コ」という音に思いを寄せる。
そうして、車で帰路へ、朝早くから出かけていたので、帰ってきたのも比較的早かった。午後五時前。うちの近くの湧水が流れる崖、高くなったあたりを眺める。ここも縄文の頃には人が住んでいたのだ……。雨が上がっていた。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。