夜霧の巷(55)
- カテゴリ:自作小説
- 2018/12/27 18:16:22
植村雪枝が静かに病室で語りだした。菅原は録音機のスイッチを入れた。
聞き取りは二日にわたったが、三日目の朝、雪枝の病状が急変して面会謝絶になった。クラブ霧笛の美佐からママの容態が悪くなった。聞き取り取材は当分延期してくださいと菅原は美佐から言われた。かなり強い調子で通告された。菅原が雪枝の病状を悪化させた原因ではないかというような口調であった。確かに雪枝は封印していた青春時代の苦渋を吐露してくれた。このことが雪枝の精神に大きな負担になったのではないか。このように言われれば、返す言葉がなかった。菅原は自分の要求が強引過ぎたのではないかと悔やまれたが、この連絡を菅原が受けてから二日後に植村雪枝は他界したのであった。まだ、雪枝の青春物語の途中であったので、この突然の雪枝の死は菅原にとって衝撃であった。遺書として残された雪枝の録音肉声を文字として、どのように書き起こしていくのか、菅原には日本刀の抜き身を眼前に突き付けられた気持になった。信太盛太郎の死に続いて、クラブ霧笛の植村雪枝の突然死、得体のしれない運命が菅原の身近に発生して、何か絶対的な使命を菅原に押し付けてくるようであった。自分の命と生活をかけて取り組めと、菅原の目の前に運命の綱が下りて来たのではないか。菅原は身震いして自分の使命を感じるのであった。
身寄りのない植村雪枝の葬儀はクラブ夜霧の関係者だけで執り行われた。北川美佐の指示に従って、菅原も参列したが、美佐、クラブ夜霧でアルバイトをしている西野順平、菅原の3名だけであった。仕入れ業者も古くから通っている顧客の列席もなかった。雪枝の遺言を美佐が忠実に実行していると言っても、いいのかもしれない。まるで朽ちた葉っぱが風に吹かれて、ひらひらと静かに舞い降りたようであった。雪枝の魂は、どこへ行こうとしているのか。人知れずどこかへ飛び立って行ったのかもしれない。興味があるなら、菅原さん探してごらんなさいと無言で語りかけてくるようであった。
植村雪枝の肉声を閉じ込めた録音機を菅原は握り締めた。部屋に閉じこもって文字にするしかない。これから先、どのようになっていくのか菅原にも判断がつきかねた。ただ、雪枝の体験談の延長線上に信太盛太郎の死があったのであれば、雪枝の青春と現代との接点がどこかに眠っているはずである。この途切れた謎を手繰り寄せれば、壮大なルポが書けるのではないか、この謎解きができるのは自分しかいないと菅原は確信するのであった。