武士と日本刀(善悪の同居)
- カテゴリ:人生
- 2018/11/09 21:25:22
武士の魂とは云うが。
縄文の時代より争いが起ると、物の夫たちは刃を携え生きてきた。村の内なるを慈しみ、外に向けては残虐を専らとして暮らした。戦乱の時代、家族を愛する自身と、其の片身である太刀を佩いた武士たちをみるに、片刃の日本刀が崇高なまでの美しさを備えたのは、人が故であろうか。
スターウォーズで言う、ジェダイ寺院とフォースの暗黒面の関係。もともとジェダイは武士を基に想像され、未来の戦国時代を描いたとも聞いた。大げさな話かもしれないが、隠し砦の三悪人など黒沢映画に影響されたのは事実の様である。
もしかしたら人が人として生きて行くための、宗教にも似た社としての美しさ、神々しさが、日本刀に秘められた想いなのかもしれない。神の国、日本の象徴なのかもしれない。そして決して抜いてはならぬものとして、幕末の剣術家:斎藤弥九郎は門弟たちに伝えたという。
寒さは、身に沁みますので頭の刺激になるでしょう。昔、小さな部屋を閉め切って、炭火で暖をとって受験
勉強をしていたら、急に気分が悪くなって部屋から飛び出たことを思い出しました。一酸化中毒寸前だった
のです。今思うと笑ってしまいます。
>このテーマを形にするための助走路のようなものが現状です。
>どうか、長い目で観察をお願いします。
こちらこそ、よろしくお願いします。
諦めなければ何時かはきっと。
天からのお声がかかるまで、重いのだか軽いのだか分らぬ物を背負いて、トボトボ歩いてゆく所存いございます。
ご指摘の諸点は貴重なご助言としてありがたく頂戴しておきます。才覚の限界はなかなか自覚できない
ものです。でも、地金として現状を貫くしか方法がないのです。書いていて分からなくなるからです。
ですが、書きたいテーマがありまして、このテーマを形にするための助走路のようなものが現状です。
どうか、長い目で観察をお願いします。たぶん吉春さんも秘めておられるテーマがあるはずです。この
気持ちがある限り、小説への憧れは立ち切れません。吉春さん否、吉春氏には猛進を願っています。
和歌が本命のように見えると思いますが違うんです。
そもそもニコットへ出没するようになったのは、毎日日記を書いて他の人と交流を持ちたかったからなのです。その更に先にあったのが小説を書く事。短歌(和歌)は、他人の書かれた文章を汲み取りその主題の一部をまとめて書き表す為の手段だったのです。できればそれが作者の主題であり、それへの返答であればこの上ないことなのです。会話では五感で持って相手へ思惟を伝えることが可能ですが、文字だけですとこれは大変な難題となるでしょう。ゆえに思惟の一部でも伝われば良しとするのが、書き手の心得となるのかもしれません。
以下は『夜霧の巷』を拝読させて戴くにあたって、向学の為その手法をメモったものです。
・『夜霧の巷』疑似3人称で「私は」を「美佐は」に置き換えて物語を綴っている。
・実質一人称である事は、地の文に美佐の心情が語られている事で分かる。
・小題6でルポライターの菅原慎一郎へカメラが写る。
・小題8で菅原の許婚へカメラが写る。
此処からはメモるのを打ちとめました。結局《菅原慎一郎》が主人公なのですね。これは小説の技法で言うと、3人称多元視点とでも言ったら良いのか分類が分かりません。小説の鉄則として、初めに登場する人物が主人公である場合が多いと思いますがどうでしょう。
またカメラが映ると書いたのは、その人の目を通して描いているという意味で、その事は地の文でその人の内面を語っているからそう判断しました。つまり、《菅原慎一郎》が主人公ならば、彼以外の登場人物を描く場合は地の文に内面を表現しないのが良いと思うのです。それは主人公が知り得ない事ですし、また主人公が誰だか見失ってしまうからです。
さて、『夜霧の巷』はいよいよ物語が見え始めました。これまで語られてきた登場人物が糸で結ばれていた事が分かり、今後の展開が期待されます。最後に、色々読んで感じたことを書き連ねましたが、不快に感じた段も御有りかと存じます。そこでこれらは、文学の心得もない一個人の言い分と鼻であしらって戴ければ幸いです。
来年こそは、せめて長編小説(戦国)のプロットを組み立てるぞと意気込んでいる吉春です。
ありがとうございました。
三人目です。一人目は作品がスタートした直後でした。二人目は私の友人で、ニコットに友達紹介した
友人でした。この二人は1回こっきりの覗き読みでした。その後、何の反応もないまま今日に至りました。
吉春さんのコメントをもらって書く意欲が湧いてきました。何とか続けていきますので、今後もお寄り
いただければありがたいです。吉春さんは和歌が本命のようですが、新作小説を是非是非書いて下さい。
>人を殺傷する道具
確かに殺生の道具であるはずの太刀ではありますが、中世において本来目的で使用された期間はごくわずかであったようです。平安から鎌倉中期位までは騎射(弓)、後期から南北朝・室町期にかけては長巻・長刀・持鑓など柄の長い武器が好まれて戦国時代に至る。
それでも武士たちが太刀を佩いていたのは何故だろうか。おそらく主武器を喪失(破損含む)した時の最後の砦であり、それは正に最後の手段で神頼みに近かったのかもしれない。まあ、武士の道具は一つではなく家人が持ち歩き主人の要請により手渡したと聞く。もちろん、大身(所領の多い武士)になると、鑓持ちの者や弓持ち長巻持ちなど複数引き連れて出陣して行った。刀が活躍するのはもっぱら打ち取った敵の首を切り取る時なのだ。それも太刀ではなく小さいほうの刀なのだ。
戦国期に入ると鉄砲の伝来により戦の様相がガラッと変わり、鑓を担いだ武士は動きやすさを重視して太刀の代わりに刀身の詰まった打ち刀と小刀の2本を帯に差して戦場へ赴くようになる。いつの時代でも肌身離さず己の片身(武士の象徴)としてあったのではなかろうか。
たしかに、素直に美しいと見て感じ取れれば良いという時代が、長く続く事を願います。
刀はほれぼれするほどに美しく
人を殺傷する道具には見えません
我が家にも二振あったそうですが
大正時代に盗まれたとか
あったとしても空襲で家は焼けていますので
どうなっていたかわかりません
平和な世の中
観賞用として生きていくのでしょう
冷たく反射する光の中に
刀工の影と武士の姿が映し出されます
深く考えるのは止めにします
素直に美しいと見て感じ取れれば
いいのかなって思います^^