近代むかしばなし3 なかはままんじろう3.
- カテゴリ:人生
- 2009/10/06 01:36:58
ジョン・マンこと、、まんじろうはホットフィールドせんちょうと
せんいんのみんなとともに
“あめりか”
の大地をふみました。日本人でははじめてのことでした。※
まんじろうは、あめりかでは、、ホットフィールド船長のむすことして、、またかぞくとして、むかえいれられました。※
がっこうにもかよい、えいごにさんすう、りか、しゃかい、、海のわたり方、、ふねのつくり方、、それはそれはいろんなことをまなびました。
日本では、、まだまださきの
“だんじょびょうどう” “みんしゅしゅぎ”
のかんがえ方こうどうのしかたというものもおぼえたものでした。
まんじろうのきょうみといよくとがんばりは目をみはるものがあり、、ねるまもおしんでねっしんにがんばったけっか
みごとまんじろうは、、
学校をいちばんでそつぎょうしてしまったのです。
さてさて、、
まんじろうはがっこうもそつぎょうし
ほっとふぃーるどさんとおなじ、、
くじらのりょうしの道にすすみます。
やはりそこでも毎日毎日、、りょうをいしょうけんめいがんばり、
りょうのべんきょうをかかさなかったまんじろうは
しばらくののち、、わかいながらも、、船のふくせんちょうにえらばれました。※
ふくせんちょうになったまんじろうですが
いぜんとかわらずまいにちまいにち
ふねのうえでくじらをとることをがんばりました。
しかし、まんじろうはある日、、、
ふと、、、
日本がなつかしく、、こいしくなってしまいました。
そう、、
まんじろうは、にほんにもどることをけついしたのです
しかし、、くじらをとるしごとをいくらがんばっても
ふるさとのにほんにかえるのには、、おかねがたりません。
それはそれはたくさんのおかねがひつようだったのです。
そこでまんじろうは、あめりかのひがしでおこっている
ごーるどらっしゅ、、にさんかして、“金”てにいれるべく、、
東海岸の町“かりふぉるにあ”をめざしました。※
かりふぉるには、、
このあいだまで、、あめりかではひとのいないさびしいまちでしたが、、そこにはいろんな国やばしょから、、
いろんな国のさまざまな人がとてつもなくおおくあつまっていました。
その環境はときにものすごくわるいものでしたが、
まんじろうはせっせと金をほってはたらき、、日本に向かうお金をたくさんたくさんかせぐことができたのです※
まんじろうはいままでよくしてくれたほっとふぃーるど船長とその家族、ふねのなかまたちにおれいとわかれをつげ
かせいだお金でいちろ、、はわいをめざしました。
はわいでは、、すうねんぶりにそうなんした日のりょうしなかまとさいかいしました
また、、たがいによろこびあいました
またいろんなことをはなしあったのです。
その後ハワイでまんじろうはなかまといっしょに
“しゃんはい”
に向かう船にのり、かせいだお金でかいつけた船、、
“アドベンチャー号”
もその船につみこみ、、まんじろうはふるさと日本にむかって旅立つのでした。
つづく、、
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*注釈
*万次郎は、鎖国の時代にアメリカに渡ることが出来た唯一の日本人だったため、日本人でアメリカ初めて体験したことが多い。上記に書いてあるものも並べると、、
日本人としてはじめて↓↓
・アメリカの台地を踏む。(遭難と同じ年、天保12年1841年)
・の移民かつアメリカ人の養子(アメリカ人として成立したのかは調べてません)。(同じく1841年のこと)
・実践的英語を学ぶ。(英語環境下のもとで生活)
・近代式捕鯨に携わる。
・鉄道、蒸気船に乗る。
・ネクタイをした(と言われている)
・ゴールドラッシュに参加する(しかも参加した唯一の日本人)
*船で船長を決める、船員全員による投票が行われたとき
万次郎ともうひとり同票数で1位が居た。
このときまんじろうは、もうひとりの人物が年長者だったため、
その人物に船長になってもらい、自分は副船長に就いた。
*当時のカリフォルア(1849年~数年)はまだほとんど未開拓の地域で住民もすくなかった。
*カリフォルニアにアメリカ国内、チリ、メキシコ、中国、イギリス、ヨーロッパ各国、アフリカ、オーストラリアなどから多くの人が金を目当てに集まったために(1849年~数年)
1849年以前の人口から何十倍も人口が増えた。
金にめぐるいさかいによる争い、インディアンとの衝突(ある部族は消滅)、人種差別、各国の菌による病気等で死人も多く出ていた。
環境は時にそのような理由により劣悪だった。
※今回も;;お話にアノニムによる;;アドリブが何箇所かあります;;悪しからず(-人-;;)
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