西郷どん 感想文
- カテゴリ:テレビ
- 2018/09/10 16:41:59
西郷どん 第34回「将軍慶喜」
NHK 日曜夜8時~
▼めくるめく幕末
今回は、今月終わる予定の江戸時代がまだ終わってないからさっさとやっちゃう
日本史の教師みたいに、実にめまぐるしい展開でした。
前回の終わり頃に始まった第二次長州征討が1866年の6月で、
大政奉還が翌年の11月(旧暦10月)ですので、この幕末のただでさえ短期間に
いろいろ起きた約1年半を、たった1回ですませたということになります。
この間に起きたことは、第二次長州征討が幕府の旗色が悪いまま終結、将軍家茂の突然の病死、
慶喜の将軍就任、孝明天皇崩御、四侯会議、倒幕の密勅、大政奉還、
ざっと教科書に載っているような有名な事柄だけ挙げても、これだけあるのです。
まぁ薩摩と西郷に関しては、この時長州征討に参加しなかったため、
あまり動きはなかったと言えるかもしれません。
実際西郷はこの時期薩摩にいて、内政に力を注いでいたようです。
ただこれだけのことをすべて調べて史実との違いを指摘するのは大変時間がかかりそうなので、
今回はざっと重要なポイントだけ押さえていこうと思います。
▼前半(旧暦1866年代)
さて、吉之助が指摘したように、大義のない第二次長州征討においては、薩摩藩の他にも
長州に近接する芸州藩(広島藩)なども参加せず、10万の大軍と言われてましたが、
そのほとんどが士気が挙がらない状態で、片や返り討つ長州藩の兵力は3千でしたが、
海援隊や薩摩藩の協力により最新式の武器を使い、藩士だけでなく有志の民間人も加わった奇兵隊は
士気も高く、近代戦の訓練をしていたため、士気の低い烏合の衆など敵ではありませんでした。
開戦してから1ヶ月余り後、大坂城にいた家茂が死去したため、慶喜は朝廷に働きかけ休戦します。
しばらく家茂の死は伏せていたようですが、なんだかんだあって1ヵ月後に慶喜は徳川家を継ぎます。
ただしこの時は将軍までは継がず、徳川宗家の長となっただけでした。
本当に将軍になるのがイヤだったのか、それとも自分が将軍に「なってやる」ことで、
政治能力を持たない朝廷に恩を売るのが目的だったのかは、分かっていません。
その後12月になって朝廷から宣下を受けて、やっと将軍に就任します。
それから1ヶ月もしないうちに孝明天皇も急病で薨去。
あまり急なことで、毒殺説も囁かれたくらいで、その容疑者の筆頭に挙がったのが岩倉でしたw
ドラマでは孝明天皇を慕うあまり殉死しようとしたのに、世間の認知はそんなもんだったのですね。
後の研究で毒殺説が疑わしくなり、岩倉の容疑も晴れたようですが。
▼後半(旧暦1867年代)
ドラマでは四侯会議において、慶喜が松平春嶽、山内容堂、伊達宗城の3人を事前に抱きこみ、
自分の思うがままに会議を進めたように描かれていましたが、
実際はもうちょっと喧々囂々と意見を交わしたようです。
話し合われたのは長州の処遇と兵庫開港について。
久光と慶喜の意見が真っ向から対立することになり、久光は早々に会議の参加をやめてしまいます。
朝廷側はあくまで兵庫開港には反対していたのですが、慶喜が脅威の粘りを見せ、勅許を獲得。
四侯会議は慶喜側の完全勝利に終わったのです。
考えてみれば、四侯と言いつつ慶喜も参加し、元々幕府と縁が深い春嶽、佐幕派の容堂が
参加しているのですから、それは慶喜側に比重があってしかるべしなのです。
久光も元々は倒幕などという考えは毛頭なかったのですが、これにて方針を転換することになります。
本当に久光と慶喜の相性は悪く、お互いよほど毛嫌いしていたのだろうなと思いますw
これにて薩摩は完全に倒幕に舵を切ることになり、それが倒幕の密勅に結実していくのですが、
慶喜によるいきなりの大政奉還にて気勢をそがれることとなってしまいます。
これは龍馬が考えたとさせる船中八策の一条「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、
政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」が由来でした。
これを龍馬が後藤を介し容堂の承認を得て、後藤が幕府に建白したのです。
この間薩土盟約があったようですが、立ち消えており、ドラマでは省略されてましたね。
ともかく大政奉還により、武力倒幕がしづらくなった吉之助は、龍馬を殺す動機ができました。
なのでいまだに龍馬暗殺の犯人が薩摩藩であるという意見が消えないのですね。
その龍馬暗殺は、次回描かれるようです。
大政奉還があって尚、武力倒幕への道を突き進もうとする吉之助は、
まるで何かに取り憑かれたようですよね。