Nicotto Town



あれから7年



そういえば、去年の今頃、実家にいたっけな~・・・・・
(全然、別の用事で行ったんですww ホントに偶然)
と、一週間ほど前に思い出して、その時にあげたブログを見返してみた。
で、それから、書こうか書くまいか迷った挙句の記録。
(長くなりますよ、多分ww)

あの日、大きく長い地震が起きて思ったのは「震源どこ?」
テレビの地震速報で東北が震源と知ってすぐに実家に電話を掛けました。
つながらない・・・・・
実家に、というより回線全体が混んでいるのはすぐに分かった。
仕方がないので、時間をおいてかけてみようと、散らばってしまった物を片付けたりして、しばらくして気が付いた。
「電話がつながらないってことは、学校の連絡網もかかってこないじゃん!」
当時、長女が中学2年生。次女が小学6年生。
多分、子供は引き取りに行かないといけないことになってる!
次女が通っている小学校は徒歩で5分ちょっと(近い!)
片づけをやめて、すぐに小学校に向かいました。
案の定、子供たちは校庭に並んで保護者を待っている状態。
毎年、2学期の始業式の日に「引き取り訓練」はやっていたけど・・・
「なにかあった時は」とは、常に思ってたけど、まさかその「なにか」がやって来るとは・・・
「○○○○(次女)の母です」
「○○○○さん!」
担任の先生が、子供にお家の人であることを確認して、次女の手を握って家に向かう・・・・・
はずだったのに、
「教室に上履き忘れた」・・・・・おいっ!
『危険だから、校舎に入らないように』って、言われてるでしょう!
仕方がないので、「急いで」取りにに行かせました。
待っている間に、幼稚園から一緒のお友達とそのお母さんが通りかかって声をかけてきたので、次女が戻ってくるまでおしゃべりを・・・・・
「次女ちゃんらしいね~」(´・ω・`)
その間にも、余震が・・・・・

帰宅して、さすがに中学生は「引き取り」はないけど、心配なので、迎えに行ってみることにしました。
中学校までは、約2㎞(遠い・・・)
次女には「もし何かあったら、〇号室の〇〇さんに声かけて、助けてもらって」(同じアパートの中でも、古株で一昨年、自分が救急車で搬送された時も子供たちに声をかけてくれて、何かと助けてくれた方)と、指示して自転車で中学校に向かいました。

『ほかの保護者の人がいなかったら、恥ずかしいかな~』
と、思いつつ校門をくぐろうとした時、近所に住んでいる、長女と同じ部活の後輩のお母さんに会いました。
「今日、総会があるはずだったんだけど・・・」
彼女はその時、クラス役員だったんです。
この日は、午後の授業は体育館で「三送会」をやっていたはずでした。
生徒たちは、校庭に集まっていましたが、見ていると2クラスぐらいづつ交代で教室に荷物を取りに行っているようでした。
後日、長女に聞いたところによると、「三送会」の最中に地震があったので、上履きのまま全員、体育館から直接校庭に避難したとのこと。
一学年7クラス。全21クラスが戻ってきてから、教頭先生が帰宅する際の注意事項を話し始めました。
・自宅までのルートで、通れない場所があったら学校に戻ること。
・お家の人が留守だったら、学校に戻ること。
・そのほか、何か危険な場合も学校に戻ること。
え?それって、先生方は帰宅できないじゃん・・・
その後、ぞろぞろと校門に向かった生徒たちの中から、長女とその友達と自宅までのルートが近い子たちを4,5人連れて自宅に向かいました。

夜になって、ようやく実家から℡が来ました。
「2階の植木やなんか、みんなひっくり返って、足、踏む場所もねえんだ。
 お父さんと『明日にしてもうねっぺ』って、言ったんだ~」
「津波は?」
「線路(常磐線)の向こうで止まったから、この辺はみんな平気だ。
 『石垣が崩れた』とか、どっか壊れたとか、言ってるだけだ。
 線路の向こうはなんにもねえわ」
実家は、道路を挟んで常磐線が走っているのですが、線路は土手の上を走っています。さらに東側には田んぼの向こうに6号国道が走ってますので、そのおかげで津波は届かなかったようです。
まさか、あとからあんなことになるとは思いもせず「津波の被害がなくてよかった」と思いました。

実は10日に車で出かけた帰りに、ガソリンが少なくなっていることには気が付いていたんですが、
「明日でいっか~」
とそのまま帰宅しました。
12日に、ガソリンスタンドに向かうと見たことのない長蛇の列!
順番待ちをしながら、車のテレビでニュースを見ていました。
原発の様子が気になったので・・・・・
(すでに2㎞圏内の世帯には避難指示)
そして、あの水蒸気爆発。
夜には、ニュースで20㎞圏内に避難指示が出されたことを報じてました。
「20㎞だと、圏内か、ギリギリ入らないか・・・」
ギリギリ入りましたw

その夜、母から
「(母の)弟(叔父)の家にいる」
と電話がありました。
叔父の家は、南相馬市内でも、旧原町市で避難指示圏内を免れたのです。
当時、両親は携帯電話を持っていなかったので、自宅にいない時はこちらから連絡を取ることはできませんでした。

その叔父の家にいたのも、2日ぐらい。
叔父の家は創価学会に入っていたのですが、叔父の家族が「学会の人たちと一緒に避難する」ということで、両親は避難所になっている市役所に向かうことにしたそうです。

この日から、4日ほど後。
母からの電話。
「今、新潟にいる」
「新潟~?」
「避難してきたんだ」
「新潟のどこ?」
「〇〇っていうとこで、コミュニティセンターみたいなとこにいんだけど、温泉はあるし、横になれば床暖房だし、最高だ~」
はあ~?
避難先の体育館が寒くて、プライバシーもないって言ってる人たちもいるっていうのに・・・・・

後日、母に聞いた話。
叔父の家を出て、市役所に避難したものの、食事はほとんどなかったようです。
1日目には、パンが配られましたが、2日目にはおにぎりが1個。3日目は何もなかったそうです。
その3日目の晩に「避難します」と、行先も告げられずバスに乗せられたそうです。
真っ暗な道を「どこさ連っちがれんだが(連れていかれるのか)わかんねえ」と言う状態だったようです。

避難先に到着すると、真夜中にもかかわらず、町の方たちが、おにぎりと温かい汁ものを用意してくれ、新しい下着なども配ってくれたようです。
「いや~、ありがたかった~」
と、母が言ってました。
新潟の皆さん、ありがとうございました。

その頃、福島県内の避難者が自宅や避難所に置いて行った自動車から、ガソリンを抜く、という犯罪が多発していたので、何度目かの電話の時に訊いてみました。
「車は?」
「持ってきてあるよ~」
「え?」
「だって、車ないと不便だもん」
新潟に避難して、3日目ぐらいに父が南相馬の避難所まで誰かに送ってもらい、新潟まで運転していったようです。
当時、70歳を越えていた父が・・・
福島県の浜通りから、山を3つ越えて、新潟まで車を持って行ったそうです。

しばらくそこにいたのですが、南相馬市の鹿島に仮設住宅が出来て、そこに移りました。



2800文字を越えましたww
続きは、新しく書き始めますww





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