好きだったわけではないけれど久世光彦さんの
- カテゴリ:テレビ
- 2018/02/28 00:23:21
すきだった懐かしのテレビ番組…。
とくに思い浮かばない。
ぱっと、名前がでてくるんだけど
そこまで思い入れないしなあと
思ってひっこめてしまう。
じつは、あまり、テレビ、みていなかったからかも。
とくに父親が、わたしには優しかったのだけれど
テレビに関しては、すこしだけきびしいところがあって
あまり、みせてもらえなかったことも関係しているかも。
自然を扱ったもの、教育的なもの、ニュースはいい
んだけど、それ以外は殆ど駄目。
アニメや特撮ものは、すこしだけ。
けれども、目こぼししてもらってた感じで
本来的にはあまり、よろしくなかったんだろう。
歌番組はオッケーだったかな。
特にドラマとバラエティーは駄目。
だから、今もなんとなく、テレビは
みない。わたしの部屋にないし
もともと独り暮らししていたころは
テレビがなかった。
だからかもしれない、あまり懐かしいように
おもえるテレビ番組がないのだ。
けれども。
だいぶ大人になってから、というかここ十年ぐらいでか。
もうとっくに亡くなってから(2006年)の、
久世光彦さんの小説やエッセイ、
すきで、読んではまっている。
その彼が演出家やプロデューサーだった頃の作品
「時間ですよ」「寺内貫太郎なんとか」
しっているようなしらないような…
きいたことがある程度で、おそらくまったく
見たことがないと思う。
けれども、エッセイなんか読むと、ていねいに作っていることがわかる。
たとえば、
「亡くなる」ということば。これは本来は
尊敬語的なことばなので、自分の身内には使わないそうだ。
「亡くなった父が」という言い方はしない。
けれども、心情的には、「死んだ父が」という言い方をしたくない。
それは、わかる。
で、どうしようかと、台詞で悩んだ。
役者を含めて数人と相談し、結局
「病気で死んだ父が」という台詞にしたそうだ。
このエピソードで、
台詞ひとつでも、なんとていねいに作っているんだろうと
ちょっとびっくりした記憶がある。
けれども、今、BSとかで、寺内貫太郎シリーズ
再放送しているみたいだけど、みていない(笑)
どうも、あのてのホームドラマ…食わず嫌いなのかな
見ようと言う気になれなくて。
久世さんが関わっているんだから、見ないと…
とは思うんだけど。
久世さんのすきなところは、耽美的、郷愁をさそうような
詩的なことばたちなので…。ドラマの持つ世界は
どうも違いそうな…。
たとえば最近読んだものだと
『泰西からの手紙』(文藝春秋)。
泰西絵画とそれにまつわる作者のエッセイ。
「五歳の私の記憶は、誰にも侵されない私だけの幻であり、人がすべてを奪われた後にも、たった一つ見ることができるのは、その人の《幻》である」
「色使いは《嘘のように》鮮明な原色だった。それが私たちに遠い遥かな《泰西》を想わせたに違いない。遠すぎるということが《幻》ならば、美し過ぎることもまた《幻》だったのである」
「こうした絵をぼんやり眺めていると、《美しい》ということが、何かとても簡単なことのように思えてくる。水は冷たいとか、ほんとうの空は青いとか、人はいつかいなくなるとか──そんな五歳の子供でも知っているような、わかり易くて大らかなものに違いないのだ」
いや、「わかり易くて大らかなもの」的なものが、
ドラマと関係しているかもしれない。
やっぱり、いつか、久世さんが関わったドラマ、みてみたいなあ。