鬼を名乗りて⑦
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- 2018/02/03 11:47:07
今年も鬼がやって来た!
一年に一度鬼たちの活躍を語るシリーズ『鬼を名乗りて』の季節が到来だ!
鬼の選定にはいつも悩まされる
しかしながら今年の大河は『せごどん』幕末が舞台のお話だ
ということは幕末最強のあの男を出すしかあるまい
不敗のまま敗戦した伝説の鬼
鬼玄蕃こと酒井 了恒が今年の鬼だ!
幕末最強の軍は庄内藩である!
しかしながら戊辰戦争で悲劇的な降伏を見せた会津などとに比べると、
え? そこでも戦闘があったの? と思う人もいるのではないだろうか
庄内藩と戊辰戦争の関わりは深い
そもそも戊辰戦争とは、庄内藩と薩摩藩のいざこざが始まりなのだ!
幕末期に京都の治安維持を仰せつかったのが会津藩であるのは
新選組が会津藩預かりであったことでよく知られる事だと思う
同様に江戸の治安を預かっていたのが庄内藩だ
治安を預かる身である以上、早急に軍備を整える必要がある
だがそれにはお金がかかる、そこを上手くバックアップしたのが本間家であった
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」
こんな歌がうたわれるほど本間家の財力は飛びぬけていた
酒田を拠点に金融業や米取引や北前船交易で莫大な富を築き、
その資金を背景に大掛かりな新田開発にも力を注いだ
その結果、庄内藩の石高13万石に対して本間家の財力は20万石相当
もはやそれは、本間藩とも呼べる規模だったのだ
この本間家からの資金援助を得て庄内藩は急速に軍備を整えていくことになる
商人から最新式の兵装を密輸して、約1000名からなる洋式軍隊を編成した
無論軍服を着て、銃を持てばそれで洋式の軍備ということにはならない
庄内藩の恐ろしいところは洋式軍備を理解し
集団戦法である近代の戦争を身に着けていたというところなのだ
さて大政奉還がなされたのだから、本来その時点で戦争の火種は消えているはず
なのになぜ戊辰戦争は起こったのか
それは薩摩藩の思惑通りであった
大政奉還以前より幕府との戦争のきっかけが欲しい薩摩藩は浪士を大量に雇い入れ
幕府寄りの商人・浪士に対して放火・掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発し続けた
そしてそれは大政奉還後も続いた
彼らはまだまだ残る幕府寄りの勢力を戦争で一掃したいと思っていたのだ
そんな思惑とはつゆ知らず
証拠を押さえた庄内藩は江戸薩摩藩邸へ押し入り、これを焼き討ちするという手段に出た
この事件は幕府側の人間を大いに奮い立たせ、「薩摩打つべし!」を合図に集結していった
しかし逆に新政府側に反乱鎮圧という大義名分を与えることとなった
こうして新政府軍は旧幕府側の藩を朝敵として打ち滅ぼしてゆくわけのだが
唯一滅ぼすことが出来なかった藩があった!
それが庄内藩! 中でも鬼玄蕃こと酒井了恒率いる弐番大隊の活躍は目覚ましいものだった
庄内藩家老、酒井了恒その人物像にいよいよ迫っていこう
玄蕃とは、酒井玄蕃家の家督相続者が代々引き継いでゆく名前で
彼も家督を相続した慶応3年に襲名している
酒井玄蕃家というのは、藩公酒井氏の分家であり代々家老職を務める名家
彼は幼少より書物と剣を好み、詩作・笛においても名手で
長沼流兵学を学ぶと軍事的才能が頭角を現して来
藩をあげての、蘭式・英式の教育で彼の基礎的な部分は出来上がったのでした
その後江戸市中取り締まりの番頭として江戸の治安を守った後
庄内藩へと戻り、弐番大隊隊長へと抜擢されたのでした
弐番大隊は、破軍星旗という隊旗を用いていました
破軍とは北斗七星のひしゃくの柄の一番先にある星の名前です
古来中国では
「破軍星の方角に軍を進めれば必ず負け、 破軍星を背にして戦えば必ず勝つ」
という言い伝えがあり、それにあやかるようにこの旗を高く掲げて戦ったのでした
尚他の6つはひしゃくの先から、貧狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲となります
東北地方は奥羽越列藩同盟として結集し、新政府軍と対峙することになります
庄内藩は清川の戦いで薩摩軍を撃退、勢いを駆って寝返った秋田へと流れ込みます
海道、山道の二方面から秋田の首都久保田城を目指す庄内藩
中でも鬼玄蕃率いる二番大隊は破竹の勢いで新庄、横手、大曲と勝ちを重ねていきます
あまりの強さにこの頃になると敵は『破軍星旗』を見ただけで
「鬼玄蕃が来た!逃げろ!!」 と戦わずして戦意を喪失し逃げ惑ったと言われています
薩長土肥という言葉を歴史の勉強で聞いたことがあるかと思います
薩摩・長州・土佐は確かに幕末期活躍したイメージがありますが
ですが肥前と聞いて、え?なんで入ってるの? と不思議に思う人も多いのでしょう
肥前が他の藩と肩を並べられた理由、それこそが新政府軍最強の部隊『佐賀藩武雄部隊』なのでした
庄内藩に翻弄され負け続きの新政府軍は、満を持して武雄部隊を戦線に送り込みます
新政府軍の兵装も庄内藩と互角程度まで上昇しており、
序盤にあったキルレシオの差はほぼ埋まっていると考えていいでしょう
また兵力を大量導入した結果新政府軍は約1万人まで膨れ上がっており、
二千人の庄内藩は、すぐにでも飲み込まれてしまいそうでした
しかしながら鬼玄蕃は奮戦を見せます
機動力を生かした別動隊を組織して、側面・背後から何度も奇襲攻撃を仕掛け成功させます
縦横無尽に奇策の限りを尽した戦いに新政府軍は大いに翻弄され
鬼玄蕃と彼の部隊を大いに恐れることとなります
佐賀藩武雄部隊を二度にわたって退け、久保田城も目前の鬼玄蕃さんですが
ここにきての両軍の勢いは戦況とは真逆でした
新政府軍は本拠久保田近辺の戦いであるために潤沢な補給を受けられるようになり、士気も高まっていました
一方補給線の伸びきった鬼玄蕃側は武器弾薬が欠乏するようになりました
また連戦連勝とはいえ兵士たちの疲労はピークに達しており、いつ脱落してもおかしくない状況でした
こんな中鬼玄蕃さんもついに、風邪をこじらせて倒れてしまったのです。
鬼玄蕃が病床に伏している間、他の藩兵が刈和野を守っていたのですが敵方に奪回されてしまいました
鬼玄蕃も次第に自軍が劣勢になりつつあることを案じ
これは寝てる場合ではないと翌日高熱をおして輿に乗り指揮をとったのです!
弐番大隊は大いに盛り上がり再び刈和野を奪取することに成功しました
病を押しての奮戦は、まさに鬼の異名にふさわしい!
孤軍奮闘を続ける庄内藩ですが、周囲は次々と新政府側に降伏または恭順していきます
米沢藩、仙台藩、会津藩と主力が降伏し、ついに周囲26藩全てが新政府軍に降伏という絶望的な状況になります
こうなっては例え、久保田城を落としたところで広がりきった戦線を維持することはできません
撤退し、本国を固める方針になったのは至極当然の事でした
戦争において最も難しいのはこの撤退戦です
鬼玄蕃さんは、この撤退戦の指揮を指揮しました
これまでの恨みとばかり鬼の形相で迫ってくる新政府軍を
時には振り切り時には痛打を与え強弱をつけた見事な采配で、全軍をほぼ無傷で庄内領内への撤退を完了させました
老獪な名将のような手並みですが、この時鬼玄蕃26歳です
結局庄内藩は新政府軍に降伏する道を選択します
鬼玄蕃さんは二十を超える戦闘に参加し、ただの一度の敗北をせず
庄内藩は最後まで領内への敵の侵入を許しませんでした
余談ではありますが、戦後鬼玄蕃さんと面会した薩摩藩の参謀は
「鬼玄蕃の有名をほしいままにした男が、まさかこんなに温和で女子と見間違うほどの美少年だったとは・・・」
と絶句したそうです。
足跡がアホみたいについていてもお許してくださいね^^;
なかなかゆっくりまとまった時間と理解する頭に恵まれていないものですから。。。。。