三輪の山里(三寺尾の合戦その4)
- カテゴリ:自作小説
- 2017/11/13 22:23:54
4.三寺尾の合戦
「ご注進、ご注進ぃ~ん」
ここは木部城、舟橋を渡り武田の使者が到着すると、書状を受け取った番兵が中庭へやって来た。
「いかがした」範次の問いに番兵は
「武田の使いが、お目通りを願っております」
「これへ通せ」
やって来た使いは「家の子を小串城へ、背かぬ証しとして差し出せ」と伝えてきた。
その上「ともに戦わずともよいが、決して城から打って出てはならぬ」と言うものだ。
武田に見方をする振りをして、寝返られては困るからだろう。
「承知したと、伝えてくれ」
城主範次は使者にこう告げると、家老どもに登場するよう番兵に指示した。
すると間もなく嫡男範虎を筆頭に、須川勘解由、増尾新兵衛尉、萩原三郎左衛門の家老どもが評定の席に着いた。
「呼び出したのは他でもない、武田が小串へ質を入れろと言ってきた」
「我らは上杉が家臣、どうするおつもりでしょうか?」
「聞け我が子よ、そなたは此れより駿河守を名乗りわしの跡を継ぐのじゃ」
範次続けるには、武田は暗に「範虎を人質に出せ」と言ってきている。
現当主の嫡男かそれに次ぐものを、差し出すのが最も重きを置かれる。
ところが、範次には範虎の他、男子は失われており替わりはいない。
そこで、範虎に家督を譲り、その子小次郎を差し出すというものである。
「それは、なりません、我ら家老どもがその役務めましょう」
「新兵衛、それは嬉しいが、武田は認めんだろう、家督を譲り、小次郎なら理に適おう」
「しかし、殿」「殿……」家老どもが口々に言うところへ
「皆の者またれよ、--父上の言う事を聞こう」
範次はさらに言う。
「わしとて上杉毛家老の端くれ、安中・和田・倉賀野を置いて武田に走るは道理が立たぬ」
そこで、範次は年寄どもを引き連れて山名城へ引き籠り、機を観て上杉方に寝返り直し武田と戦うと言うのだ。
その時は、範虎自身が小串城へ行き父範次が寝返ったことを告げ、自分は決して武田に背かないことを告げよ。
乱世を生き残る手段である。そして、武田に勝てる見込みなど無い事は、小田井・笛吹峠の合戦で知れていた。
この当時多くの家が、このように敵味方に分かれ、勝った方の者が家の名を残すのだ。
小串城に本陣を置き出陣した武田の軍勢は、三ツ木より鏑川を難なく渡河して真庭城を占領した。
この辺りの上杉方は、皆三寺尾地域の諸城に駆り出されて空き城も同然だったからである。
河を渡ると言う事は、それ自体危険な行為であり、それが敵に追われて撤退するなら尚である。
晴信は引き連れて来た六軍の内一つ原加賀守の手勢を、この真庭城へ入れて退却路を確保した。
一方の上杉陣中では、安中越前守を隊将とする西毛九頭の諸将が、三千余人を従えている。
そして武田の軍勢が、鏑川を越えて山名から石原方面へ向けて進軍中の知らせを受ける。
すると、丘を下り逆茂木を置き策を巡らした陣地へ躍り出て、敵を「今かいまか」と待ち受けた。
その頃木部城は、板を外して船を退けた水路に囲まれる水城の中にあった。
するとそこへ、武田が手勢を分けてその一軍がやって来た。
そして白旗を上げながら、水路を小舟で渡って来るのが見える。
「御城主に取り次ぎ願いたい」
この使者は、武田家家臣の小山田備中守が使いで「寝返って、わが軍の後ろを突かないよう見張りである」と言ってきた。
まことに武田晴信と言う男は、用心深く抜け目のない武将である。
鏑川を渡った手勢は、原加賀守が真庭城へ小山田備中守は木部城へ在陣している。
残る軍勢は、馬場民部を先頭に原隼人助、浅利民部、小宮山丹後守の四段の備えで鎌倉街道を北上していった。
見ると、晴信の馬印諏訪法性旗が八幡宮の裏山へ登ってゆく。
すでに真庭城から原加賀守の手の者が、この山の上に陣所を構えて居たらしい。
木部家の要害山城を見張り、三寺尾方面を見渡すためでもある。
九月三日三寺尾の地において、上杉勢3千に対する武田勢6千が対峙した。
その時木部城では、範虎が新兵衛尉と三郎左衛門の二臣を従えて小山田備中守の陣へまかり越した。
「我が父範次は、必ずや寝返り武田様の後ろを突くでしょう」
「なぜそれを告げに来た」
「それがしは、決して裏切らぬと証を立てねばならぬからです」
「それで?」備中守は食い入るように範虎を問い詰める。
「山名城にのろしが上がるとき、倉賀野から兵が押し出してくるでしょう。それを木部の手勢で防いで御覧に入れます」
「うまいことを考えたのう、じゃがそれはならぬ。裏切らぬ証に今一人これへ人質を出せ、--倉賀野へは我らが当たる」
「おおせのままに」