三輪の山里(三寺尾の合戦その2)
- カテゴリ:自作小説
- 2017/11/10 13:00:01
2.再会
天文18年(1549年)夏、武田晴信は軍勢を従えて甲府を立ち、再び佐久郡を制圧した。
そして、前山城へ入り陣を張ると信濃及び上野の平定について、今後の策略を練るための評定を行った。
「西上野の小幡が助けを求めてきた、そうであったな?弾正」
弾正こと真田弾正幸隆(幸綱)は、父祖の地小県を追われて上野国の箕輪城へ亡命していた頃。
城主長野信濃守業政の娘婿の国峯城主、小幡尾張守憲重と幸隆は親しく語り合っていた。
主君晴信の問いに答える幸隆によると憲重は、
「お館様の誘いにより主君上杉憲政に弓を引いたものの、小幡家中にいまだ憲政に忠義を尽くそうとする輩がいて困っている」
と送ってよこしたと言う。
続けて幸隆は、
「ここは、お館様(晴信)に御出馬戴いて御威光を顕わにすれば、小幡家中はおろか他の地侍どもも、こちらへ寝返えりましょう」と答えた。
晴信は「信濃の次は」と、上野攻略も視野に入れた上で調略を仕掛けていた。
すると、幸隆と故意にしていた小幡憲重が誘いに乗ってきたのだ。
この評定に着いた諸将を見わたすと、馬場民部、原加賀守、同隼人助父子、浅利民部、小宮山丹後守、小山田備中守等のつわものである。
この時幸隆はまだ小山田備中守の配下にあり、父祖の地である小県郡の奪還を目指していた。
幸隆の答えに「なるほどと」と頷いた晴信は、評定の席にある家臣どもへ「上野へ出向こうと思うが、その方等はどう思うか?」と問うて見回した。
晴信の懐刀と言われた馬場民部が「よろしいのでは」と答えると、一同それに習った。しかし何か物足らなそうな様子の晴信である。
「勘助!そちはどう思う」
「は!まずは前山に備えを残し、内山、星尾、田口峠へと軍勢を分けて西上野へ入るがよろしいかと思います」
勘助もまだ諏訪上原城代の板垣駿河守が配下であり、軍議の席で意見を言える立場ではなく、晴信の意見を求める言葉を待っていたのだ。
これの言う所によれば、まず真田弾正を小幡憲重の籠もる国峯城へ遣わす。
次に真田の後を追い、陣場奉行の原加賀守、同隼人助父子を先発として向かわせ、道筋の安全と兵站の確保を命ずる。
初めて上野へ軍勢を入れるため、かなり慎重になるべきだと勧めたのである。
「ほほう!すでに弾正と打ち合わせ済と見えるな、--よかろう、まずは小手調べじゃ」
「御意」勘助は答えた。
「では、さっそく準備にかかれ、そして南牧の市河と連絡を取れ」
晴信も上野入りについては前もって手を打ってあり、内山城から峠を越えた先の、南牧谷へ市河氏を入れて砦を築かせてあった。
すでに峠を越えて上野入りする道筋は確保されており、その先にある国峯城の小幡氏を味方に付ければ、関東管領の籠もる平井城は目の先である。
これは小幡憲重の腹の内と、上野衆の動向を探る小手調べの作戦となり、それが必定となる。
国峯城は秩父山地の北の端、城山の稜線上に本曲輪を持つ山城で、麓に平時の館を構えている。
館から平野部へ出るために、沢沿いに北へ、更に右手北東へ進むと両脇の山の裾から、水堀で仕切って出口が塞がれている。
そこへ土橋を掛けて館方面への侵入を制限し、外敵からこの城を守っている。
ここまでが国峯城の城域と言えよう、麓から本丸までの高さ百五十間(約300㍍)ほどの大そうな構えである。
そこへ武田家の使者として、真田弾正以下の手の者がやって来た。
「たのもう、それがしは武田家家臣、真田幸隆と申す、小幡尾張守殿に目通り願いたい」
「ようこられた、話は市河殿から伺っておる、ささ、こちらえ」
迎え出たのは、小幡家重臣の熊井戸対馬守正満である。
主尾張守は只今取り込み中であると控えの間に通された。
館の周りでは、夏の暑さがじりじりと泣く蝉とともに、辺りに立ち込めている。
奥の部屋からは、何やら争うような声と共に大男が現れい出た。
この大男の名は図書之介と言い、その稀に見る身体を怒らせながら吐き捨てる。
「あちらにも、こちらにも媚びを売るとは何たる有様か」
そして、床を大げさに踏み鳴らしながら去って行った。
それを見送るように目を向けていると、熊井戸対馬守が声を掛けてきた。
「お恥ずかしいところを、見られてしもうた。--あれが騒動の頭なのです」
奥の間へ通されると幸隆は、憲重との再会再開を果たす。
「一別以来じゃの、真田の」
「であるな、小幡の」
二人は親しく語り終えると、幸隆から主晴信よりの思惟を語った。
嫡子信貞を南牧まで向かえに出し、以後道案内をする事。
国峯城下のいずれかに、武田の陣城を築き、兵糧入れの手助けをする事。
これ等について、原加賀守と真田とよくよく相談する事などである。
小幡尾張守の嫡子信貞は初め信実と言った。
そして武田家に従ってからは、上総介・尾張守と官途を与えられ、信貞と名乗りを変え武田二十四将に数えられたのだ。
赤備えの騎馬五百騎を従える尾張守信貞の手勢は、上野国衆でありながら武田家随一の規模を誇り、いずれ長篠へと従軍する事になる。