三輪の山里(三寺尾の合戦その1 改め)
- カテゴリ:自作小説
- 2017/10/31 21:43:27
◆序文
天文15年(1546年)山内・扇谷両上杉氏及び古河公方の連合軍は、相模北条氏との川越城をめぐる合戦に敗れた。
その頃信濃では武田晴信が佐久郡へ侵攻してくると、これに対抗するため佐久の領主たちが関東管領上杉憲政へ援軍を求めてきた。
この時、箕輪城主長野信濃守業政は、北条・武田の両氏を敵に回す愚行として諫めたが、援軍を送り大敗してしまう。
すると、上杉憲政は求心力を失い、膝元の上野河西衆(利根川西の領主達)の離反を引き起こしてしまった。
以下、和田記・甲陽軍鑑などを元に編集された『上毛古戦記』(山崎一氏著 再販)の考察を下地にして『三寺尾の合戦』を描いてみる。
1.源氏の末裔
荒船山に夕陽が架かると、男は手綱を握りしめ愛馬に鞭を入れて、家族の待つ家路を急いだ。小札の具足(鎧一式)が、かしゃりかしゃりと音を立てては跳ね上がり、やがてその影は茜色の断幕に向かって消えていった。お天道様が東から登り西へ沈むのと同じように、男の働きが一家を支えるその姿は、今も昔も変わらない。
上野国(群馬県)の中西部に広がる片岡丘陵の東南の端には、源氏の氏神である山名八幡宮が鎮座していた。その由緒は、河内源氏の流れをくむ新田義重の庶子、山名義範にさかのぼる。神社から西へ半里ほど行った山名郷山の根の地には、鎌倉街道上道が南北に走っている。
男はこの山本宿へ続く、街道脇に構えた館まで帰って来ると、家族と共に夕飯を迎えた。
「おまえさま、支度が出来ましたよ」
妻のやえが呼びかけると、男は応える。
「おおそうか、いまいく」
男は主君木部駿河守範次に仕え、この辺り一帯を任されている。領民から年貢を取り立てて家人を養い、人足を引き連れて奉公する役目を担っているのだ。男の名は萩原三郎左衛門康春と言い、一騎当千の武士であり木部十騎の一人に数えられている。
「今日もお切込みうどんですが、ろくな添え物も無くてすみませんことです」
「すまんのはこちらだ、--やえ、明日の市に出す反物の具合はどうだ? 良い値で売れれば少しは滋養の付く物も得られよう」
「はい、今少しで片付きますので、朝までには用意して置きます」
この家では、三郎左衛門と妻のやえ、娘のせつ、嫡男の源吾丸と昨年生まれた次男の康次郎がおった。
「お父上、われにも何か土産を買うて来てくだされ」
源吾丸が言うと、負けずに姉のせつも言う。
「私にも買うてくださりませ」
「そうだな、とくにせつは、母じゃを助けてよく働くからな、楽しみにしておれ、源吾もな」
「はいぃ」
三郎左衛門たちは、家人と小作人の家が屋敷を取り囲む形態の、ごく普通の郷士の館に住んでいる。上野国の南部では秋に稲を刈り入れると、冬にならない内に麦を蒔いて翌年収穫する二毛作が盛んである。
米は年貢として納めたり、戦時の兵糧として保管し焼き米や干し飯を作り、常に出陣に備えている。その他米は銭に換えて蓄えられる。そのため麦は、お切込みうどん等の粉食に用いて、上州人の腹を支えているのである。
翌朝、家人の与次郎は、厩から世話を終えたばかりの、主三郎左衛門の愛馬を引き出して軒につなぐと、
「だんな様、何か他に荷物があるんだんべか?」と声をかけた。
「与次郎、--反物をやえから受け取ってくれ、--やえ用意は出来たか?」
「はい、今すぐ出します」と、やえは奥から包みを持って現れ与次郎へ渡した。
「お願いしますね、与次郎」
「へい、かしこまりました」
与次郎は包みを背負い、主を乗せた馬の手綱を握ると、街道を山名八幡宮へ向けて引いていった。神社では、春は五穀豊穣を願い、秋は実りの感謝を捧げる祭りが行われる。これと重なると、この市もかなりの賑わいを見せていた。
しかし、関東管領上杉憲政が川越の戦や小田井原の戦で大敗してからは、迫り来る外敵の圧迫による緊張の渦中に飲まれてしまい、例年の賑わいはない。
そうなると祭りさえ危ぶまれ、ただ参道に植えられた桜のみが、変わることなく咲き誇っている。
するとそこへ、山の根から三郎左衛門が家人の与次郎を伴いやって来た。あたりでは、郷民たちが品物を持ち寄り物々交換したり、商人たちと売り買いしたりする姿がちらほら見える。三郎左衛門は、露天の店主に反物の売値を掛け合って歩いた。そして、相応以上の返答を得ると満足そうに取引をし、そのついでに世間話を持ち掛ける。
「どうかな、商いの方は上手くいっとるようだが?」
「はい、--いやっその、どこへ行っても賑わいにかけて困っております。それと言うのも近頃物騒な噂ばかりでして……」
「なるほど、--それでその噂とはどの様なものか?」
「いやぁそれが、小幡の殿様は相模の北条様とよしみを通じて、平井の管領様へ弓を引いたばかりなのに、今度は甲州の殿様へ貢物をして良からぬ事を企んでいると聴きました。何やら恐ろしゅうてなりません」
と言うのは、小幡氏の領国内に南牧と言う土地があり、それは上野の西の外れにあたり、律令の時代より牧を構えて馬の放牧を行っている。どうやらその内の駿馬を、躑躅が先の晴信の所へ使いを出して送り届けたらしい。さらに、武田方の市河氏をこの土地へ招き入れたと言うのだ。
「まことか?」
「へい、私は佐久からこちらまで、商いをして参りましたが、道中の宿々で噂が立っておりまして」
「さようか、だがうわさじゃ、それほど心配もいるまい」
こう言うと三郎左衛門達は、土産など忘れて主の籠る木部城へ向かった。心配無い分けなど無いからだ。主従が八幡宮を東に向けて進むと、左手の遥か北方には上毛三山の内『赤城』『榛名』の山が水色に濡れてそびえている。
山名郷は、北に北西から南東へ流れる烏川、南に西から東へ流れる鏑川が流れ、この両川に挟まれる肥沃な土地だ。さらに両川は、神社から二里程東の地で合流している。この川に挟まれた三角地帯の平野部で稲作を行い、西部の丘陵地帯では桑を作り養蚕が行われていた。
「だんなさま、また戦になるんだんべか?」
「それも視野に入れて置かねばならんな」
「えれえ事にならなきゃ、ええがのう」
「そんときゃあ、そん時だ、与次郎頼むぞ」
「へい、だんな様」
この水田地帯を横切る道を通り一里ほど進んでいくと、鎌倉街道上道の山名宿へたどり着く。宿は、鮎川や鏑川の河道を利用した水路で囲まれた総構えの中にあった。その広さは、東京ドームと小石川後楽園が余裕で収まる程である。
山名宿へは舟橋を渡って行かねばならない。戦時には船上に掛けた板を外して、船を退ければ二十間もの幅を持つ水堀となって寄せ手を阻むのだ。よって宿内に構えられた木部氏の館は、木部城とも呼ばれ、寄せ手を防ぐのに十分な能力を誇っていた。
「だんな様、今日は足場が悪く見えるんで、下馬されたら如何で?」
「これしきの揺れを渡れないで、戦など到底できぬ、大事無い」
水路を渡りくる風に誘われるように、三郎左衛門は与次郎から手綱を取り上げて宿内へ入った。そして、宿内の北側に更に2重の堀を巡らした、木部城の大手門前で下馬すると、追ってきた与次郎に手綱を預けた。
門をくぐると、そこは外曲輪と呼ばれ、そこから更に少し回り込んで内堀に続く門を超えて行かないと、本曲輪へは入れない。外敵が直線的に侵入してくるのを防ぐためである。城主木部駿河守範次は、その出自を源頼朝の弟、蒲冠者(かばのかじゃ)源範頼の末裔と伝える。
そして、三郎左衛門は、《範》の字を代々受け継いでいる主君範次の主殿へ向かった。
「大殿は何処に居られるか?」