想いを言の葉に乗せて(その2)
- カテゴリ:小説/詩
- 2017/09/29 23:34:22
●言の葉に漢字をあてる(読みと意味に縛られて)
はじめに「ことば」があった
喉元から発せられたことばは、大気に刻み付けられ、耳で読んだ。
つぎに「己止波(ことば) 」があり、耳で読んだものと同じ音の文字が当てられた。
竹や木の板に記されて、目で読んだ。
さらに「己止波」は、短冊に詠むのに優しく崩され「ことば(平仮名)」が生まれた。
合わせて和紙の登場により、多くの言の葉が記されるようになった。
こうして表現力を増していった「ことば」は、「言葉」を与えられ「己止波」とお別れをした。
やがて耳から読んでいた、やまと言葉に漢字が当てられ、作られて日本語が育っていった。
想いを言の葉に乗せ、旨意を的確に伝える手段が整っていったとも言えよう。
ところがどうだろう、この手段に頼りすぎて、何かと引き換えにしてしまった気がする。
それは何だろう?
おもうに「いろはにほへと ちりぬるを」とあるこの例で考えてみる。
元詩を知らなければ、仮名に漢字を当てる作業に悩む。
「色ワニほへ?と塵塗るを」
なんとか意味に成りそうだが、実に締まらない光景だ。
「色は匂へど 散りぬるを」
香り立つ花が散るのを、と何かが続けて語られる事が想像される。
言の葉は日本語の発達とともに、読み手の意を汲み取る力を奪っていった。
日本語はその力を過信して、旨意を写実的に表現する手段を選ばせた。
力のない書き手は、必死に思いを伝えようと喘ぐあまり、無駄に長文を綴った。
(あれ?これ自分のことじゃん (^^;)
これは言い過ぎだろうな、良き書き手はその匙加減を心得ているに違いない。
吉猫は、抽象的な表現をする手段の一つとして、漢字の意味にとらわれず、ひらがなを多く選びたい。