三輪の山里(その2)
- カテゴリ:自作小説
- 2017/09/20 23:01:42
城の虎口をでると、家臣の家屋敷や町屋が広がっていた。
平地に築かれた城ゆえ、運河でこれらを取り囲む総構えを形成していた。
鎌倉時代この地は、山名宿と呼ばれ鎌倉初代将軍、源頼朝にかかわる逸話が残る。
小代伊重置文に、先祖行平が御堂供養のため遅参したが、山名の宿にはせ参じたとある。
この山名の地は、対岸の倉賀野と並び河川舟運と鎌倉道の交差する要所にあった。
「あのまあるい小山ってなあに?」
「あれはむか~し昔、ここいらを治めておった主の墓所じゃ」
少年の指さした方角には、白石古墳群がならび、その一角に七輿山と呼ばれる、前方後円墳が居座っていた。
上野三碑の内の「多胡碑」にある、羊太夫の墓ではないか、と伝承もあるが定かではない。
この碑文にある「石上(いそのかみ)」の末裔ともされる、長野信濃守業政の待つ、平井城まであとわずかであった。
「御開も~ん」
大手より城内に向かった一行は、迎えの間に通されると、待ちきれずに手招きをする、御人の姿があった。
「はよう早う、達者でなりよいじゃ」
「まあ、お前様、どちらがお子か分かりませんねえ」
「しのこそ、まだかまだかと、落ち着かなかったではないか」
この信濃守の御部屋様は、名を「しの」と言うが家臣どもからは「金谷御前」と慕われた。
「しの姫」は、迫りくる相模北条家と敵対する、扇谷・山内・小弓公方らが同盟するとき、
長野家からは業政の妹を義堯へ、安房里見家からは義堯の姉を業政へと室に迎え入れた。
男子に恵まれなかったしの姫にとって、実の弟義堯の実子を養子に迎え入れるこの縁談は、この上ない喜びであった。
里見家より養子を迎えることは、事前に告げてあり今回その挨拶にあがったのである。
「おもてをあげよ、ういのう、して名は何と申す」
「里見刑部少輔が一子、文吾丸にござります」
「ほほ、よう言えたのう、長野家も安泰じゃ」
「今後いっそう、余に力を貸してくれ、信州」
「はは、もとよりその覚悟にございます」
城を後にし主君業政を加えた一行は、榛名山麓に構えられた、箕輪城を目指し街道を北上した。
つづく(かもしんない)