少女の日記【短編集】
- カテゴリ:自作小説
- 2017/08/29 21:02:29
#-曇天
「なあ、ドロシー。」
なあに、と答えた。
「いつまで、待ってるつもりなんだ?」
いつまでもよ、と言った。
「いつか、なんて、お前の心がすり減るだけじゃないか。」
構わないわ、と答えた。
「お前も馬鹿だよ、ドロシー。」
知ってるわ、と答えた。
「お前は、それで良いのか?」
私は、答えなかった。
バシャバシャと水飛沫を上げてもがく手が宙を掻く。
短い脚は水底に届かず、水を吸った髪と膨らんだドレスが、錘のように少女を引きずり込んでゆく。
口から溢れ出る水泡がやがて最後の一つを吐き出すと、陽に照らされた水面でぷかりと弾けた。
青いカチューシャが、するりと解けた。
*
ガリガリとキャンバスを彩る音が響いている。
黒檀のクレヨンで小さな手を真っ黒にしながら、鼻息も荒く机に向かう少女。
床に届かない両脚が椅子の下でぶらぶらと揺れていたが、しばらくしてクレヨンを放ると、少女はキャンバスを引っつかんで床に降りては、パタパタとアトリエを飛び出していった。
「汽!」
少女の声と足音が昼寝気味の屋敷の空気を震わせる。
休憩時間を与えられた使用人たちも誰ひとり、少女を気にかけるのを忘れていた。
「汽、どこ?」
客間、物置、浴室。
書斎、食道、子供部屋、アトリエ。
全て回って歩いても、見当たらない彼の姿を探して少女は中庭に迷い出る。
明暗と朧げな輪郭しか捉えることのできない視界が映すのは、白白と光を反射したガゼボと、並べられたティーセット。
麗らかな日差しが芝生を揺らす風に乗って素肌を撫でる。
「……汽?」
段差に躓いて転ばないようにと、ヒールの無い平らなサンダルが煉瓦造りの地面を叩く。少しだけ坂になったそこでバランスを崩しかけ、手を突いてフラつきながら彼の姿を探した。
キョロキョロと巡らせる視線、目の代わりに音をよく拾う耳が、ふと生垣の向こうから聞こえた声を聞いた。
「――――おーい、レイチェル!」
同い年くらいの男の子。
その周りで誰かがクスクス笑っていた。
「……だぁれ?」
声のほうを向いた少女は一歩足を踏み出した。
けれど、そこにあるべき地面は無い。
池の上にかけられた橋から身を踊らせて、少女は落ちた。
長いスカートと肩までのセミロングの髪がふわりと風を孕んで膨らんだ。
透明な飛沫がまだ眩い日差しの中でキラキラと煌くと、少女のくぐもった悲鳴が気管に入り込んだ水に閉じ込められる。
水を吸って重くなった身体、底に届かない脚。
「ギャハハハハ!レイチェルが落ちた!」
遠くから聞こえる笑い声が庭先に響く。
頭の先まで冷たい水に浸かって、右も左も分からないまま伸ばす手は空を切るばかり。
暗くなる視界と閉塞感に襲われて、吐き出してしまった酸素の代わりに肺を満たす水に呼吸を奪われ沈み込む。
波打つ水面は徐々に静かになってゆく。
熱く滲んだ目頭から溢れる涙は池に溶け、伸ばした右手が太陽を影した。
怒鳴り声と、走り去ってゆく無数の足音が水の中に響く。
息の出来ない苦しさよりも、暗闇の方が怖かった。
*
「…………レイ。」
ぼんやりする意識の端を拾い上げる、落ち着いた声が鼓膜を揺らした。
薄く開けた視界に広がる淡い色の照明。
もう乾いた前髪を撫でる手が温かかった。
「……汽に、描いたの、あげたくて、探したのよ。」
発した声が自分でも聞こえないくらい小さくて、掠れていた。
彼は、答えなかった。
代わりに苦笑しては、
「あとで、教えてあげるから。」
彼は言った。
#-月光
時間がゆっくり流れている。
あの時から進むのをやめた年月が、霜のように降りかかる夜。
夢が終われば、あなたのことも忘れてしまうのかしら。
*
「…………シンシア?」
冷えた夜の空気を揺らす小さな声だった。
片膝を抱える少女がゆっくりと顔を上げる。
「芹、まだ寝ていたら?」
指でなぞった窓の縁、薄らと白く埃がまとわりついた。
華奢な肩からこぼれ落ちた栗色の髪が、白い月光を浴びて煌く。
「私ね、まだ夢の中に居るような気分でいるの。」
「あなたとまた出逢った日から進む日が現実なのかしら。」
「夢なら覚めないで欲しいわ。」
「眠らなくて良くなってから、これが夢みたいに思えるの。」
「あなたと居ると楽しくて、つい忘れそうになるけれど。」
「いつか、私を忘れてね。」
「私は、あなたの呪いなのよ。」
誰かが聴いているならば、それは独り言ではないという。
ゆったりと流れる夜、半分だけ欠けた月。
「おやすみ、芹。」
少女は再び、窓の外へ視線を戻した。
#-遠雷
いつかまた巡り逢っても
あなたに貰った〝欠片〟できっと
あなたのことを見つけてみせる
*
「禅、これ、なぁに?」
「ピアスだ。」
手のひらに乗せられた小さな欠片。
指でなぞっても、その輪郭がよく掴めない。
「ピアス?」
「蝶の翅の、欠片だよ。」
大きな手が頬を撫でる。
温かいその手が耳朶に触れ、片手で器用に針を通した。
「……似合ってるよ、フラン。」
「本当?」
光すら映さない両目を瞬かせて、少女は笑った。
どこか遠くて鳴る雷の音が、ほんの少しだけ心地いい。
空を引き裂き光を奪う雷は、みんなのことを私を同じにしてくれるから好き。
「禅、大好き!」
ふ、と苦笑する彼は、栗色の髪を撫でてくれる。
****