河瀨直美監督『光』・続
- カテゴリ:映画
- 2017/08/28 16:24:13
続きです。
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他にも、この映画には挑戦的な仕掛けがあります。
映画内映画の主演女優と音声ガイド制作者の上司は、
同じ女性が演じています。
映画内映画の主演男優と映画内映画を撮った監督もまた、
同じ男性が演じています。
音声ガイド制作者の上司が映画に出演したという設定ではなく、
映画監督が主演も兼ねた映画という設定でもありません。
でも、なぜか同じ人物が演じているのです。
同じ女性が演じています。
映画内映画の主演男優と映画内映画を撮った監督もまた、
同じ男性が演じています。
音声ガイド制作者の上司が映画に出演したという設定ではなく、
映画監督が主演も兼ねた映画という設定でもありません。
でも、なぜか同じ人物が演じているのです。
そして、映画内映画の主演女優は、
認知症という障害を持つ女性であり、
音声ガイド制作者の上司は、
視覚障害者をサポートする立場にいます。
認知症という障害を持つ女性であり、
音声ガイド制作者の上司は、
視覚障害者をサポートする立場にいます。
映画内映画の主演男優は、
認知症を患う女性を一人で介護しようとし、
彼女を見失って砂浜を彷徨う初老の男性であり
映画内映画の監督は、
そのような初老の男女の関係を見つめ、
その男女の関係を写し撮ろうとする立場にいるわけです。
認知症を患う女性を一人で介護しようとし、
彼女を見失って砂浜を彷徨う初老の男性であり
映画内映画の監督は、
そのような初老の男女の関係を見つめ、
その男女の関係を写し撮ろうとする立場にいるわけです。
映画内映画の中では、当事者であるものが、
映画の外では、当事者の傍らに寄り添って、
映画の外では、当事者の傍らに寄り添って、
適切なサポートに配慮する立場だったり、
レンズを通して当事者たちの姿や関係性を見据えようとする立場にあるわけです。
レンズを通して当事者たちの姿や関係性を見据えようとする立場にあるわけです。
同じ人物が、当事者として待ったなしの状況を生きつつ、
その当事者を客観的に観察し、それぞれの方法で当事者に関与するという
二重の関係性を背負っているわけです。
その当事者を客観的に観察し、それぞれの方法で当事者に関与するという
二重の関係性を背負っているわけです。
河瀬直美監督がなぜこのような関係性を設定したのか、
その意図は、私もよくわからないのですが、
しかし、役者という仕事は、
当事者でありつつ、当事者を観察する人でもあるという
二重性を生きていることは確かです。
その意図は、私もよくわからないのですが、
しかし、役者という仕事は、
当事者でありつつ、当事者を観察する人でもあるという
二重性を生きていることは確かです。
与えられた状況の中で、その役をその人として生きるという点で、
役者はどこまでも当事者です。
同時に、役者は、役を生きる自分自身を醒めた眼で眺めているところがあって、
その点から言えば、役者は、状況と自分自身への冷静な観察者でもあります。
役者はどこまでも当事者です。
同時に、役者は、役を生きる自分自身を醒めた眼で眺めているところがあって、
その点から言えば、役者は、状況と自分自身への冷静な観察者でもあります。
本来ならば、一人の役者の中にある二重の役割を、
当事者とその観察者という別々の人物に分解して演じさせているのだとすれば、
この映画は、役者という存在についての批評にもなっています。
当事者とその観察者という別々の人物に分解して演じさせているのだとすれば、
この映画は、役者という存在についての批評にもなっています。
そして、『光』という映画は、
映画内映画の当事者も、その当事者を見つめる観察者も、
役者に役として演じさせているわけです。
映画内映画の当事者も、その当事者を見つめる観察者も、
役者に役として演じさせているわけです。
ですが、このような設定の場合、もはや役者は、
物語の中の役を上手に演じていればそれでいいというわけにはいかず、
役者として生きるというのはどういうことなのかという問いに
自覚的に向き合わざるをえません。
役者として生きるというのはどういうことなのかという問いに
自覚的に向き合わざるをえません。
このむずかしい役どころに、
この映画の中で最も芸達者と言える神野三鈴と藤竜也を当てているのは、
この二人が、
このような設定の中で、
どのような演技を…
この映画の中で最も芸達者と言える神野三鈴と藤竜也を当てているのは、
この二人が、
このような設定の中で、
どのような演技を…
否、演技と言うよりも、
役者としての存在の有り様を見せてくれるか、
それを期待してではないでしょうか。
それを期待してではないでしょうか。
その試みや良しです!
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しかし、このような仕掛けや設定が、
空回りしていたのではないか。
空回りしていたのではないか。
それがこの映画に対する私の率直な印象でもあります。
河瀬直美監督の演出方法は、
役者に役を演じさせるのではなく、
言い方を変えれば、
監督が役者を動かして、自分の撮りたい絵を撮るのではなく、
役者に役を生きてもらう、
音声ガイド制作者の役ならば、
実際にその仕事に携わってもらう、
そして、その姿を監督は写し撮っていくというものです。
役者に役を演じさせるのではなく、
言い方を変えれば、
監督が役者を動かして、自分の撮りたい絵を撮るのではなく、
役者に役を生きてもらう、
音声ガイド制作者の役ならば、
実際にその仕事に携わってもらう、
そして、その姿を監督は写し撮っていくというものです。
ですから、主だった役者には、
撮影が始まる数週間前から、
撮影が行われる街の、
役が実際に生活している設定の住居で暮らしてもらい、
役として生きることから初めてもらうことになります。
撮影が始まる数週間前から、
撮影が行われる街の、
役が実際に生活している設定の住居で暮らしてもらい、
役として生きることから初めてもらうことになります。
役者に役を演じてもらうのではなく、その人として生きてもらう。
なので、役者がその役をしっかりと生きることができたか否か、
映画の出来不出来は、すべてそこに掛かってきます。
映画の出来不出来は、すべてそこに掛かってきます。
そして、音声ガイド制作者の役である水崎綾女は
その役を生きることができなかったのではないかなと思うのです。
その役を生きることができなかったのではないかなと思うのです。
例えば、視力を失いつつあるカメラマンが、
自分がかつて撮影したことがある夕景の場所に彼女を案内して、
しかも、かつては見えた夕景が今は見えなくなっていて、
その夕景に向けてカメラを投げ捨てた時…、
彼女はカメラマンにブチュ~といった感じのキスをするのですが、
ここでそんな激しい愛情表現になるのかなあ…
私だったら、
思いがけない形でカメラマンの悲しみを知ることになって、
茫然とし、その後、一人でしくしく泣くような気がします。
そして、彼女はカメラマンを憐れむようになるのですが、
しかし、そんな彼女に対して、
カメラマンは自分を憐れみの対象ではなく、
対等なパートナーであることを求めて、
最後のシーン、「大丈夫ですから。今からそこに行きますから」と、
慣れぬ白杖を使って、
彼女のいる方に近づいていく。
ここで初めて、二人は抱きしめ合うことになるのではないかなあ…
なんかしっくりこない。
仕掛けや設定もしっくりこない。
結局、空振りに終わってしまったのではないかなあ。
それが『光』に対する、私の率直な感想なのでした。
おしまい。