『未来を花束にして』を見てきました。
- カテゴリ:映画
- 2017/02/14 17:23:42
バレンタインの日に『未来を花束にして』を見てきました。
邦題は、女性を意識したメルヘンチックなタイトルになっていますが、
原題は Suffragette(サフラジェット)。
サフラジェットとは、
20世紀初頭、女性の参政権獲得を求めて
イギリスで活動した女性運動家たちのことです。
しかも、平和的手段ではなく、
投石・爆弾を使った破壊工作・ハンガーストライキなど、
実力による抗議行動で闘った、いわゆる「過激派」。
サフラジェットとは、
そんな女性活動家たちを
「過激派、危険なやつら」と
バッシングするためにマスコミによって作られた言葉だそうです。
この映画は、
社会運動を考える上で、
いくつかの問いを投げかけてきます。
まず、実力行使によって抗議行動を進めることの
倫理的・戦略的是非の問題。
つまり、抗議行動において
暴力手段を用いることは許されるのかという倫理的問いですし、
運動を拡大していく上で戦略的に正しいと言えるのかという問いです。
この問いは、活動家のみに突きつけられがちなのですが、
- もちろん活動家たちはその問いを真摯に検討すべきですが -
しかし、社会の側にも向けられる必要があるでしょう。
女性たちの要求に不寛容な社会が、
女性たちの行動を過激にさせているところがあるからです。
暴力を用いているのは「過激派」だけではなく、
取り締まりという名目で運動を弾圧している警察も、
嫌がらせやセクハラ、無視・無理解やDVによって、
女性たちの声を一顧だにしない男中心の社会も同じなのですから。
好きでやっているわけではない。
でも、誰かがやらなくてはいけない。
彼女たちにそんな悲壮な決意を抱かせる不寛容な社会を問うて、
初めて彼女たちの暴力もまた問うことができるように思います。
次に、人間が政治的になっていく際の、
キッカケというかプロセスについてです。
信念があるから人間は行動するのではなく、
むしろ行動するプロセスの中で、
人間は自分自身の言葉を見つけ出し、
より多くの人々にとっても重要な意味を持つ言葉を、
つまり、権利や正義を練り上げていくのです。
およそ政治的な言葉や活動とは無縁だった、
べービー・フェイスの主人公。
その彼女は運動にかかわることによって、
職を失い、家から追い出され、子どもも奪われていくのですが、
そのプロセスはまた彼女を強くしていきます。
こんな理不尽がまかり通っていいわけがないからです。
そして、自由というものについて。
自由とは何かということについて、
私はわかっていません。
ですが、今の状況が自由ではないということならば、
私はわかっているつもりです。
ですから、自由ではない私たちの姿を描くことで、
その先に、今より少しは自由な社会を考えることができるように思います。
そうやって、自由は少しずつ進んできたのです。
そうやって、少し前へと歩んでいくべきだと思うのです。