Nicotto Town


安寿の仮初めブログ


『沈黙』を見てきました。


今年まず最初に見ておかなくてはいけない映画、
それは安寿にとって、
遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の
『沈黙 Silence』でした。

昨日の映画ファーストディに見てきました。

残虐な拷問場面が何度も出てくるので、
映画祭で賞をとるのはむずかしいかもしれませんが、
遠藤周作の原作テーマに真っ正面から取り組んだ映画でした。

江戸初期のキリシタン弾圧を目の当たりにしたイエズス会司祭が
自らの信仰を棄てていくお話です。
高校の教科書にも載っていたように思うので、
知っている人は多いのではないでしょうか。


原作および映画のテーマは、三つあります。

まず、神はなぜこれほどの苦難を与えながら、
沈黙したままなのかという、旧約聖書ヨブ記から連綿と続くテーマです。

ですが、このテーマだけならば、
ユダヤ教、キリスト教世界で何度も問い続けられてきたテーマですから、
あえて日本を舞台にする必要はありません。

この作品が日本を舞台にしたのは、
日本社会の特殊性という第2のテーマを描き出すためです。



イエズス会司祭は、神への信仰は普遍的なものであり、
それは日本においても変わらないというのですが、
司祭の通訳を務める武士は、
日本という土壌において、
キリスト教もまた異質なものへと変貌せざるをえないと答えます。

日本にキリスト教が広まったのも、
それがキリスト教本来の教えとして広まったというより、
日本にすでにある来世救済や大日信仰と合わさって広まった。
つまり、天国での救済を極楽浄土での救済として捉えたり、
神=デウスの存在を、
毎日昇り、生命の源となるお日様への信仰として理解する。

何でも日本化して受容する
日本社会の泥沼のような精神風土において
キリスト教信仰もまた異質なものへと変貌していくのです。

それはまた、布教したところで、
日本人の精神性は何も変わっていないことを意味します。

阿弥陀がイエスに、極楽が天国に変わっただけのこと。

踏み絵を踏んで棄教するのであれ、
拷問によって殉教するのであれ、
どちらの神に真の救済を求めて従うかの選択問題であって、
選びようのない神と、
その神に絶対的に従わざるをえない人間という関係性は、
ついぞ打ち立てられてはいない。

しかし、この関係性の上に築かれないキリスト教信仰は、
キリスト教信仰の核心部分を捉え損なっています。

織田信長に従うか、
焼き討ちにされても一向宗として念仏を唱え続けるかと同じ位相で、
江戸幕府に従うか、
弾圧されても賛美歌を唱えながら殉教するかという信仰は、
現世救済を選ぶか来世救済を選ぶかの選択に留まっていますし、
そのような信仰心のあり方においては、
イエスもまた、他の阿弥陀如来や大日如来と同様の、
選びうる神でしかありません。



そして、そのような捉え方をしてしまう背景として
心弱き人間という第3のテーマが差し込まれます。

その心弱き人間を象徴しているのが、
棄教と告解を繰り返すキチジローです。



彼はその弱さゆえに、神を捨てます。

しかし、神を捨てたことにより、
彼が救われることもなくなるわけです。

救われぬキチジローは、
救いを失ったことを嘆き、罪を犯したことを嘆いて、
自らの罪を贖い、神の許しを得て、
神によって救われるようと、
司祭に告解を求めるのです。

そんな彼であるにもかかわらず、
キチジローは自らの命が迫害によって危機に晒されると、
再び踏み絵を踏み、十字架に唾を吐く。

命を賭して己の信仰を守るのではなく、
現世での救いを求めて己の信仰を捨て、神を捨てる。
だが、神を捨てたがゆえに救われぬ我が身となったキチジローは、
そんな我が身の救いを求めて、再び信仰を求め、神を求めていくのです。

そこには、時々の状況に流され続けていく、弱い人間がいます。
どこまでも自分が可愛い、弱い人間がいるのです。

そのような人間にとって神は、
苦難を与えて自らを裏切らせると同時に、
裏切った罪の怖ろしさを自覚させ、許しを与えることで、
再び自らへと恭順させる、
虐待と愛のダブル・バインドによる、
理不尽な、しかし逃れがたき支配者なのです。




そんなキチジローと相補的な関係にいるのが、
キリシタン弾圧を進める井上筑後守です。

井上筑後守は、
残虐な拷問を楽しむような血に飢えた暴君などではなく、
愚かな民百姓を支配する上で必要となる、
人の心の弱みを知り尽くした、
狡猾かつ「やさしい」お代官さまと言えるでしょう。

弾圧で苦しめておきながら、勘どころで情けをかける。
温情的な救いを示すことで、下々をてなづけていく。

井上筑後守は、そのような性格の支配に秀でた支配者なのであり、
そのような支配と相補的な関係に立つ心弱き人間たちによって、
虐げつつ、小出しに情けをかけることで、
支配者への恭順を保ち続けていく社会秩序が出来上がっているわけです。

このような社会秩序の上に、キリスト教が教えが伝わると、
神もまた、虐げつつ、許しを与えることで、
自らへの恭順を保ち続けるような神になってしまうのです。


キチジローと神の関係は、
そのまま下々の民百姓と井上筑後守、ひいては幕府との関係と相似形なのであり、
だからまた、幕府は、キリシタン弾圧を進めなければならなかったのです。

罰し、なおかつ恭順させる対象は、一つでなくてはならない。

仏教が幕藩体制と両立しうるのも、
仏教のほとけは、人を遍く救うだけで、
罰したり、支配したりしないからなのでしょう。



映画は、そのような社会秩序の、
ひいては日本社会の特質を「泥沼」という言葉で表現します。

そして、虐待と温情による恭順関係が心弱き人間を再生産していくところ、
絶対的神との関係で生まれる心強き人間も、
心強き人間にとっての神も、宗教も、
本来の姿では根付くことがない…。

そして、『沈黙』では、
日本社会の特殊性と、その社会におけるキリスト教受容という問題として、
温情主義的身分制支配秩序とそのような社会で宗教が果たす役割、
神という存在のあり方が問われますが、
この問いは返す刀で、
ヨーロッパ社会の中でキリスト教が果たしていた役割を
問うことにもなるでしょう。

ヨーロッパの中でキリスト教を「奴隷道徳」と喝破したニーチェのように…。

カソリック信徒でありながら、
このような問いを提示した遠藤周作は、
「心弱き人間にとって神とはどのような存在と言いうるのか」
という方向に問いを発展させていったようですが、
そして、それが『沈黙』の中での、
苦しむ人間と共にある神という考え方に結実していったようですが…、

  人間である以上、すべての人間は心弱き人間である。

ですから、この問いは、
日本社会でのみ特殊に成立する問いではなく、
人間社会であれば、どこでも成立しうる
普遍的な問いと言えるでしょう。



映画のラストは、
司祭は本当に信仰を捨てたのか否かを問うような終わり方ですが、
しかし、この映画のテーマは、私に次のような問いを抱かせます。

  現在、日本において信仰されているキリスト教は、
  果たしてキリスト教と言えるのか…。

いくつかの答えが導き出せそうです。

1)日本社会が変わった。本来のキリスト教を受容しうる精神性を持つに至った。

2)キリスト教が変わった。日本社会に適合する教えへと変化した。

3)日本社会も変化していないし、キリスト教も変化していない。
 二つの関係は、今もなお深刻な矛盾として対峙している。

私としては、3)が一番好きな答え方です。

矛盾は解決されず、依然として残されているがゆえに、
人間はこの問いを問い続けていく他に道がないからです。

日本社会であろうとなかろうと…。




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