私が『怖さ』を感じるアニメ
- カテゴリ:日記
- 2017/01/13 08:51:12
今回はあるアニメ映画および近年のアニメの批判になります。
実名は挙げませんが推定は容易いと思います。ろくに見ていないものもあります。
ですが私の考える『怖さ』と根拠、予想される状況を書くのに必要なため、そうします。
軍属にも我々と同じ思いや暮らしがある。それは当然のことです。
戦争の悲惨に蹂躙される無辜で善良な人々がいる。これもその通りです。
『怖さ』とは、こうしたメッセージを伝える手法と、そこから零れ落ちるものの種類です。
近代化と核家族化が戦争体験の口承を途絶えさせた。これが一つの推論です。
親族から聞いた生の戦争体験には、人の醜さも多分に含まれていました。
加害者も被害者も人なのだから、自分が現場にいればそうした可能性も大きい。
徴用された者にもロマンスはあったし、戦いたいヤツなんか殆どいなかった。
だが戦い壊し命を奪い、どんな組織にもある大概の不条理に順応した。
個人の罪を糾弾する視点はオミットされ、結局体制に罪が被されている。
戦中の隣組、官民での力関係、各種差別、特権階級の存在を知る人も少ない。
憲兵の実際、徴兵逃れ、疎開のもたらした軋轢、これを語る者もほぼいない。
被災者の醜さは描かれない。日本的美徳に従った理想的被害者ばかり描かれる。
アニメ映画でみたあの戦争で、初めて戦争の実際を知ったという若者がいた。
心底震撼した。戦後がとっくに終わり、戦前が始まっていることを痛感した。
そう、良かったんだ、私も見ようかなと答えて終わった。決して見ないだろう。
戦車アニメに、大戦中にその戦車に乗っていた老人から手紙が来たという。
TVから、若き日に聞いた自分の戦車の音が聞こえ「懐かしくて」書いたという。
懐かしいのか、と思った。この老人を倫理的に糾弾する者はいないのである。
深夜、第一次大戦を思わせる塹壕戦に、空を飛ぶ少女狙撃兵が出てくるアニメがあった。
シェルショックの後遺症に悩む患者の映像を見たことはあったのだろうか。
ロストジェネレーションが喪ったものの意味を問うアニメを見た記憶がない。
万人受けする感動と興行成績が重要である。コンテンツビジネスも不可欠だ。
こうして、私の考える真の戦争体験は失われ、おそらく今後も戻らない。
汝らのうち、罪なき者、石を投げよ。私には投げられない。私も罪人である